野々村正成 (NONOMURA Masashige)
野々村 正成(ののむら まさしげ、生年不詳 - 天正10年6月2日 (旧暦)(1582年6月21日)?)は、戦国時代 (日本)の武将。
織田信長の家臣。
織田信忠に従って本能寺の変で討死した。
別名は正利、幸久、通称三十郎。
弟に野々村幸成(吉安)、野々村豊前守。
美濃国の出身で、初め斎藤氏に仕え、永禄5年(1562年)5月の軽海の戦いでは、織田信長配下の織田信益を討ち取ったという。
その後信長に仕え、馬廻りとされた。
天正3年(1575年)3月の長篠の戦いでは、前田利家、佐々成政、福富秀勝と共に鉄砲隊を指揮した。
天正6年(1578年)11月の摂津国有岡城攻め(有岡城の戦い)にも参加、中川清秀の投降を信長に仲介した。
天正10年(1582年)2月には紀伊国方面に派遣され、土橋攻めの検使を務め、更に顕如や根来寺、粉河寺へ信長の朱印状を伝達している。
同年6月2日の本能寺の変では、二条城で織田信忠に従って戦い、討死した。
また、天正12年(1584年)9月、佐々成政の能登国末森城 (能登国)攻めに従軍して討死したとの説もあるが、これは野々村主水正という者で別人。