金森頼錦 (KANAMORI Yorikane)

金森 頼錦(かなもり よりかね)は、美濃国八幡藩の第2代藩主。
父は金森可寛。
母は岩上氏の娘。
正室は無く、側室だけ。
官位は従五位下。
若狭国守。
兵部少輔。

正徳3年(1713年)10月15日生まれ。
父の可寛は初代藩主金森頼時の世子であったが、37歳の若さで早世したため、享保21年(1736年)の祖父の死去により嫡孫ということで家督を継いだ。
頼錦は無能と言われているが、延享4年(1747年)奏者番に任じられ、藩政では目安箱を設置したり、天守に天文台を建設したりなど、それなりの手腕は見せている。
また、『白雲集』を編纂するなど、文化人としても優れていた。
ちなみにこれは、先人の事跡をまとめたものである。

しかし奏者番に任じられた事が、彼の運命を狂わせたと言えよう。
奏者番は幕閣の出世コースのスタートであり、さらなる出世を目指すためには、相応の出費が必要となる。
そのため藩の収入増加を図るため、宝暦4年(1754年)、年貢の税法を検見法に改めようとした(収入増加を安易な増税に求めた事が、しょせんこの藩主の能力の限界だったのだろう)。
当然ながら、これに反対する百姓によって一揆(郡上一揆)が勃発する。
さらに神社の主導権をめぐっての石徹白騒動まで起こって藩内は大混乱した。
この騒動は宝暦8年(1758年)12月25日、頼錦が幕命によって改易され、盛岡藩の南部利雄に預けられるまで続いた。
宝暦13年(1763年)6月6日死去。
享年51。
法号は覚樹院殿芳山青藍大居士。

嫡子出雲守頼元をはじめ男子5人は士籍を剥奪され、出雲守頼元、三男伊織は改易、五男熊蔵、六男武九郎、七男満吉は15歳まで縁者に預けられた。
また、次男正辰は宝暦3年(1753年)に下妻藩井上家に養子に入っておりお咎めなしだった。
六男の金森頼興は、明和3年(1766年)赦免され、天明8年(1788年)に1,500俵で名跡を継いだ。
子孫は旗本として存続した。
頼錦が没すると盛岡の法泉寺に葬られたが、金森家再興の翌年寛政元年(1789年)に頼興は遺骨を引き取り火葬の上、京の大徳寺の金森家墓所に改葬した。

なお、金森可重の5男金森重勝を祖とする分家の金森左京家は3000石の石高のまま、宗家改易後は越前国南条郡白崎に領地を移され寄合の旗本として存続している。

[English Translation]