長谷川守知 (HASEGAWA Moritomo)
長谷川 守知(はせがわ もりとも、永禄12年(1569年)- 寛永9年11月26日 (旧暦)(1633年1月6日))は、安土桃山時代の武将。
江戸時代前期の美濃長谷川藩の藩主。
長谷川宗仁の子。
官位は従五位下。
式部大輔。
右兵衛尉。
幼名は源三郎。
名は重隆とも。
父と共に織田信長、次いで豊臣秀吉に仕え、天正14年(1586年)に叙位・任官した。
文禄元年(1592年)の朝鮮出兵では肥前名護屋城に在陣し、文禄3年(1594年)には伏見城工事で功績を挙げたため、美濃国内に1万石を与えられた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍の石田三成に属して、三成の居城である佐和山城に籠もっていたが、9月15日の本戦で三成ら本隊が壊滅し、小早川秀秋ら東軍の寝返り部隊が攻め寄せてくると、守知は秀秋と内通して裏切り、三成一族を自刃に追い込んだ。
この功績により、戦後は所領を安堵された。
その後は大坂の陣でも武功を挙げ、美濃長谷川藩の藩主となった。
寛永9年11月26日 (旧暦)(1633年1月6日)、64歳で死去。
死後、長谷川家の家督は息子の長谷川正尚が継いだ。
しかし正尚は弟の長谷川守勝に3110石ほどを分与したため、長谷川氏は旗本となり、美濃長谷川藩は廃藩となったのである。
ちなみに長谷川氏は正尚の死後に後を継いだ長谷川守俊(守知の四男)の早世(正保3年(1646年)没)により断絶した。
なお、守勝の系統は旗本として存続している。