関孝和 (SEKI Takakazu)

関 孝和(せき たかかず、寛永19年(1642年)3月? - 宝永5年10月24日 (旧暦)(1708年12月5日))は、日本の江戸時代の和算家(数学者)である。
本姓内山氏、通称新助。
字は子豹、自由亭と号した。

生涯と業績

生年は寛永12年(1635年)から寛永20年(1643年)の間で諸説あり、はっきりしない。
上野国藤岡(現在の群馬県藤岡市)で生まれたとの説と、江戸(現在の東京都)で生まれたとの説がある。
実父が寛永16年に藤岡から江戸に移っているので、生年がそれ以前ならば生地は藤岡、それ以後なら生地は江戸と推測される。
関の生涯については、残念ながらあまり多くが伝わっていない。
養子である関新七郎久之が重追放になり、家が断絶したことが理由の一つである。

若くして関家の養子となる。
幼少時から吉田光由の『塵劫記』を独学し、さらに高度な数学を学ぶ。
甲斐国甲府藩(山梨県甲府市)の徳川綱重、徳川綱豊(徳川家宣)に仕え,勘定吟味役となる。
綱豊が6代将軍となると直参として江戸詰めととなり、西の丸御納戸組頭に任じられた。
甲府藩の国絵図の編纂に関わり、又改暦に備えて授時暦を深く研究して改暦の機会を窺っていたが、その後渋川春海によって貞享暦が作られ、暦学において功績を挙げることは適わなかった。

関は和算が中国の模倣を超えて独自の発展を始めるにあたって、重要な役割を果たした。
特に宋金元時代に大きく発展した天元術を深く研究し、根本的な改良を加えた。
延宝2年(1674年)、『発微算法』を著し、筆算による代数の計算法(点竄術、てんざんじゅつ)を発明して、和算が高等数学として発展するための基礎をつくった。
行列式や終結式の概念をヨーロッパより早い時期に提案したことはよく知られる。

また、関は正131072角形を使い、円周率を小数第11位まで算出した。
本計算ではエイトケン加速を用いており、世界的にみても数値的加速法のもっとも早い適用例の一つである(エイトケンによる導入は1926年)。
ヤコブ・ベルヌーイに先駆けてベルヌーイ数を発見していたことも知られている。
ただし、死後神格化されてしまったため、関個人の業績と弟子のそれを区別して特定することは、資料の不足もあって容易ではない。

宝永5年10月24日(1708年12月5日)、病に倒れて死去。
牛込(現在の東京都新宿区)弁天町 (新宿区)の浄輪寺に葬られている。
弟子に建部賢弘、荒木村英がいる。
関の死後、その学統(関流)は目覚ましく発展し、山路主住に至り免許制度などを整え、和算の圧倒的な中心勢力になる。
有力な和算家はほとんどが関流に属するようになっていった。

関孝和は関流の始祖として、算聖と崇められた。

明治以後、和算が西洋数学にとって代わられた後も、日本数学史上の英雄的人物とされた。
アイザック・ニュートン・ゴットフリート・ライプニッツより少し前に、微分・積分の「一歩手前」までたどり着いたことは世界的にも評価されている。

点竄術(傍書法)

関の最大の業績は、中国伝来の代数(天元術)を革新して点竄術(傍書法)を確立したことである。
これは記号法の改良と理論の前進の双方をふくみ、後に和算で高度な数学が展開するための基礎を提供することになる。

天元術は算木を用いた中国で発達した代数的方法である。
早くも古代(後1世紀以前)に成立した『九章算術』では、負の数の四則演算を扱い、その成果に基づいて多元連立一次方程式を一般的に扱うことに成功し、ガウスの消去法を導入している。

唐のころから一元高次方程式を扱い始め、宋金元の時代に大いに発展し、一般の実数係数の一元高次方程式の数値的解法(ホーナー法、ホーナーによる提唱は19世紀)を見出した。
また、幾何の問題も機械的に代数の問題に帰着してとして扱った。
しかし、明代に入ると中国では天元術は衰え、専ら李氏朝鮮で継承されてゆく。
朝鮮での発展や日本への流入の過程は今でも不明な点が多い。
日本では17世紀に入ってから、もっぱら京阪の和算家、橋本正数、沢口一之らによって熱心に研究された。
沢口一之の『古今算法記』(1670年、寛文10年)は天元術の学習がほぼ完了したことを示している。

天元術の欠点は、多変数の高次方程式を扱えなかったことである。
これは未知数を記号ではなく、算木を置く場所で表現しているからで、例えば(1 3 4) という配置は一変数多項式1+3x+4x^2または多変数の一次式x+3y+4zかのいずれかを表す。
(朱世傑著『四元玉鑑』では二次元の配列を用いて、最大4変数まで扱うことを可能にしているが、これ以上の一般化は不可能であった。)
したがって、二つ目以降の未知数を文章による議論で消去して天元術を用いねばならなかった。

上述の『古今算法記』は巻末に15問の未解決問題(遺題)を提示したが、それらはまさに多変数の方程式を必要とするものであった。
関は『発微算法』(1674年、延宝2年)でそれらすべての「解」を与えた。
ここで用いられたのが点竄術(傍書法)で、二つ目以降の未知数を文字であらわすことで、多変数の方程式を表わした。

ただし、『発微算法』は変数を消去して得られる一変数代数方程式が書かれているだけで(それすらも詳細を端折った回答もあった)、その背景にある点竄術(傍書法)は一切表に現れない。
その上、初期の版では若干の誤りがあった。
そのため、その正当性に疑いをもつ者も現れた。

例えば、田中由真の弟子、佐治一平(さじ かずひら、生没年未詳)は15の回答のうち12は誤りである、と主張した(実際には、佐治の指摘のほとんどは的外れであった)。
さらに、田中由真は『算法明解』(1679)で関とは別の回答を関とは独立に発明した点竄術(傍書法)を用いて与えた。
そこで、弟子の建部賢弘が『発微算法演段諺解』(1685)で点竄術とそれを用いた解法の詳細を公開し、併せて若干の誤りを(場合によっては注記せずに)訂正している。

さらに進んで『解伏題之法』(天和 (日本)3年(1683年))では、終結式を用いた消去の一般的な理論を示した。
そして、終結式を表現するために行列式に相当するものを導入した。
ただ、ここで関は3次と4次については行列式の正しい表示を与えているが、五次については符号の誤りがあり、常に0になってしまう。
これが単純な誤記の類であるか否かは不明である。
やや後の1710年以前に完成した『大成算経』(建部賢明、建部賢弘と共著)で、第一列についての余因子展開を一般のサイズについて、正しく与えている。

類似の結果は、田中由真の『算法紛解』(1690?)や、大阪の井関知辰の著書『算法発揮』(1690年刊)にも見られる。
『解伏題之法』も『大成算経』も公刊されていないので、これらの研究は独自になされたと思われる。
関と京阪の和算家との交流には不明な点が多く、今後の解明が待たれる。
また、『大成算経』の存在にもかかわらず、後の関流の有力な和算家達が『解伏題之法』を訂正して正しい展開式を得る研究を続けている。
この理由も今のところ不明である。

この一連の研究により、数学の問題は多元の代数方程式に表現できれば、原理的には解けることになった。
つまり、消去の一般論を用いて一元の方程式に帰着し、ホーナー法で数値的に解けばよいのである。
また、中国数学以来の伝統で、図形の問題はピタゴラスの定理などを用いて機械的に代数に落して処理することになっていたので、これで実に広範な問題が原理的には解けることになった。

ただし、上記のプロセスを実際に実行するのは多くの場合、計算量がかかりすぎて現実的ではない。
実際、『発微算法』で方程式のみを求めて数値解の計算に進まなかった理由はここにある。
ある問題については最終的に得られる方程式の次数が1458次にもなってしまい、方程式を具体的に書き下すことすらできなかった(この問題は最近になって、これより簡単な方程式が得られないこと、そしてただ一つの実数解をもつことが確かめられた)。
しかし、以後、連立高次方程式に帰着されてしまう問題は、和算の中心的課題ではなくなった。

行列式がライプニッツによって導入されたのは関と同じ1683年ころであるが、『解伏題之法』に比較しても一般性において劣る。
そして一般の行列式の公式や終結式の理論が発見されるのは18世紀の中ごろである。
先立って、楊輝(中国、1238年?~1298年)は『詳解九章算術』で、ジェロラモ・カルダーノは Ars Magna(1580)の中で数字係数の二元連立一次方程式の解を行列式と同様の計算式であたえている。

また、一元方程式に帰着した後、和算では数値解法で実数解を求めるのであるが、そのためには実数解の定性的性質(存在範囲、重解、個数)が解明され、効率的なアルゴリズムが確立されなけらばならない。
関は、ホーナー法の収束を改善するため、ある精度から先は高次の項を省略する方法を提案した。
これは、ニュートン法と同値である。
また、重解の存在条件を示した。
これは、元の方程式とその導多項式が共通解をもつための条件にほかならず、先の消去の理論の応用である。

[English Translation]