阿倍仲麻呂 (ABE no Nakamaro)

阿倍 仲麻呂(あべ の なかまろ、文武天皇2年(698年) - 宝亀元年(770年))は奈良時代の遣唐留学生。
唐で科挙に合格し、唐朝諸官を歴任して高官に登ったが、日本への帰国を果たせなかった。
中国名は晁衡(ちょうこう、または朝衡)。

なお、麿は麻呂の別の漢字表記である。
例:菱屋竜太郎『阿倍仲麿入唐記』1870年。

生涯

孝元天皇の皇子、彦太忍信命の血を引く。
698年阿倍船守の長男として大和国に生まれ、若くして学才を謳われた。
717年(霊亀2年)多治比県守が率いる第8次遣唐使に同行して唐の都、長安に留学する。
同期の留学生には吉備真備や玄ボウがいた。
科挙を受験して合格したので、725年洛陽の司経局校書として任官し、728年左拾遺、731年左補闕と官位を重ねた。

仲麻呂は唐の朝廷で主に文学畑の役職を務めたことから、李白・王維・儲光羲ら数多くの唐詩人と親交していたらしく、『全唐詩』には彼に関する唐詩人の作品がいくつか現存している。

733年、多治比広成(県守の弟)が率いる遣唐使が来唐したが、さらに唐での官途を追求するため帰国しなかった。
翌年帰国の途に就いた遣唐使一行はかろうじて第1船のみが種子島に漂着、残りの3船は難破した。
この時帰国した吉備真備と玄昉は第1船に乗っていて助かった。
副使・中臣名代の第2船は福建方面に漂着し、一行は長安に戻ってきた。
名代一行を何とか帰国させると、今度は崑崙国(チャンパ王国)に漂着して捕らえられ、中国に脱出してきた遣唐使判官・平群広成一行4人が長安に戻ってきた。
平群広成らは仲麻呂の奔走で渤海 (国)経由で帰国することができた。

752年、藤原清河率いる遣唐使一行が来唐した。
すでに在唐35年を経過していた仲麻呂は清河らとともに翌年帰国を図った。
この時王維は「秘書晁監(ひしょちょうかん、「秘書監の晁衡」の意)の日本国へ還るを送る」の別離の詩を詠んでいる。
しかし、仲麻呂や清河の乗船した第1船は暴風雨に遭って南方へ流される。
このとき李白は彼が落命したという誤報を伝え聞き、「明月不歸沈碧海」の七言絶句「哭晁卿衡」を詠んで仲麻呂を悼んだ。
実際には仲麻呂は死んでおらず、船は以前平群広成らが流されたのとほぼ同じ漂流ルートをたどり、幸いにも唐の領内である安南の驩州(現・ベトナム中部ヴィン)に漂着した。
仲麻呂一行は755年には長安に帰着している。
この年、安禄山の乱が起こり、藤原清河の身を案じた日本が渤海経由で迎えを寄越したが、唐朝は行路危険であるとして清河らの帰国を認めなかった。

仲麻呂は帰国を断念して唐で再び官途に就き、左散騎常侍(従3品)から鎮南都護・安南節度使(正3品)として再びベトナムに赴き総督を務めた。
761年から767年まで6年間もハノイの安南都護府に在任した。
最後は潞州大都督(従2品)を贈られている。
日本への帰国を叶えられることなく、770年に72歳の生涯を閉じた。

和歌及び漢詩

有名な「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」は、百人一首にも選ばれている。
この歌を詠んだ経緯については、753年、帰国する仲麻呂を送別する宴席の時に、王維ら友人の前で日本語で詠ったなど諸説ある。

現在、陝西省西安市にある興慶宮公園の記念碑と、江蘇省鎮江にある北固山の歌碑には、この歌を漢詩の五言絶句の形で詠ったものが刻まれている。

『全唐詩』巻732には、仲麻呂が帰国時に作った五言近体詩「銜命還国作」を収録している(作者名は「朝衡」)。

[English Translation]