青木周蔵 (AOKI Shuzo)
青木 周藏(あおき しゅうぞう、1844年3月3日(天保15年1月15日 (旧暦)) - 1914年2月16日)は明治、大正期の外交官、政治家。
勲等は勲一等。
爵位は子爵。
生い立ち
山口県厚狭郡生田村(現山陽小野田市)出身。
幼名は三浦團七。
長州藩の村医三浦玄明の長男として生まれた。
22歳の時、明倫館好生堂(医学所)館長で後の宮廷大典医となる青木研蔵(1815-1870)の養子となって士族となった。
青木研蔵は、毛利敬親の侍医で日本で初めて種痘を行った蘭学者青木周弼(1803-1863)の弟であった。
この際に2人の名を取り周藏と改名した。
留学
明倫館で学んだ後、長崎での医学修行を経て、1868年藩留学生としてドイツ留学。
渡独後、医学から政治、経済学に無断転科し問題となった。
だが来独中の山縣有朋に談判して解決させた。
1872年、北ドイツ留学生総代となり在独留学生の専攻科目決定に介入し物議をかもす。
当時の留学生の専攻は軍事、医学に集中していたためであった。
青木の真意は日本近代化には、専攻を分散することの必要を説くことだった。
青木の推奨もあって、林業、製紙、ビール、製絨(羅紗絨毯)などの分野へ特化して成功した人物も出た。
官界
1873年外務省入省。
外務省1等書記官を経て翌年駐独公使。
のち駐オーストリア、オランダ各公使を兼任。
1886年第1次伊藤内閣の外務次官。
政界
第1次山縣内閣・第1次松方内閣の外務大臣を務めた。
対英条約改正交渉を行い駐英公使として領事裁判権撤廃の条約改正に奮闘した。
青木の条約改正案は従来のものと異なり治外法権に関して「対等合意」(外国人裁判官の大審院への不採用、外国人不動産は領事裁判権を撤廃しない限り認めないことを明記)を目指した。
帝政ロシアが東アジアに進出することに不安を抱くイギリスが日本に好意を持つなど時勢にも恵まれ交渉は成功しかけた。
だが、新条約調印寸前で大津事件が発生し引責辞任、交渉は中断される。
なお、この際ロシア公使に対して犯人津田三蔵の死刑を確約しながら、判決が無期懲役となり公使が抗議に訪れた。
するとこれを伊藤博文と井上馨の指示だと述べたことによって両名の恨みを買う事になった。
(相手国公使に対する通告内容に関する最終決定権は大臣である青木にある)
1894年駐英公使として陸奥宗光外務大臣と条約改正に尽力、日英通商航海条約改正に成功。
また第2次山縣内閣外務大臣として北清事変に対処、列強の動きを敏感に察知し積極的な介入を試みた。
枢密顧問官を経て叙勲され子爵。
1906年には駐米大使として移民問題の解決につとめる。
政策
外交官としての青木の半生は条約改正交渉に長く深く関わった。
外交政略としては早くから強硬な討露主義と朝鮮半島進出を主張した。
日露戦争後は大陸への進出を推進した。
留学生、公使として滞独生活は25年に及んだ。
日本におけるドイツ通の第一人者としてドイツの政治体制、文化の導入をはかった。
家族
甲武鉄道会社社長三浦泰輔は実弟。
養子の青木梅三郎は杉孫七郎(皇太后宮大夫等を歴任)の息子。
ペルー日本大使公邸占拠事件時の特命全権大使青木盛久は曾孫。
1890年6月
- 勲一等瑞宝章受章。
1894年8月
- 勲一等旭日大綬章受章。
1914年2月
- 勲一等旭日桐花大綬章受章。
著作
坂根義久 校注『青木周蔵自伝』
(平凡社東洋文庫、1970年) ISBN 4-582-80168-4
(平凡社ワイド版東洋文庫、2004年) ISBN 4-256-80168-5