韓天寿 (KAN Tenju)

韓天寿(かん てんじゅ、男性、享保12年(1727年) - 寛政7年3月23日 (旧暦)(1795年5月11日))は、江戸時代中期の日本の書家である。
また画・篆刻も巧みであった。

本姓は青木氏。
名の天寿は、本来「たかかず」と読む。
字は大年、号 (称号)は酔晋斎、三岳道者。
百済の余璋王の後裔であることから韓を名乗り韓天寿と称する。
通称中川長四郎。
伊勢国の人。

略伝

京都の青木家に生まれたが、伊勢の両替商中川家の養子となった。
33歳で家業を継ぐ。
屋号は田丸屋といった。

書ははじめ松下烏石に就いて文徴明の書法を学んだ。
40歳頃に二王(王羲之・王献之)に師法し書の研究に没頭した。
当時書名は高かった。
法帖の制作者としても知られ曹全碑や皇甫府君などの法帖を精巧に模刻している。
山水画の臨模も盛んに行い、伊孚九と池大雅の山水画を縮小して模刻した『伊孚九・池大雅山水画譜』を刊行している。
画は文人画風の山水図を画き、篆刻も巧みだった。
先端が鍵型になった双鈎という印刀を使うことができたという。

池大雅と高芙蓉と親しく交わった。
三人で富士山・白山・立山に登山したことから、三人ともが三岳道者と号している。
なお、青木夙夜は従弟にあたり天寿を通じて大雅の門弟となっている。

中川家には蔵書が多かったが、その上に更に古い法帖や墨籍の蒐集を続けた。
しかし、国内の法帖は劣悪でみるに堪えなかったので高価な金額でも中国から舶載されたものを購入した。
隣家の火災が延焼したときも何よりもまずその蔵書を守った。
収集癖が高じすぎて晩年は貧窮した。

伊勢松坂市清光寺に葬られる。
また京都東山 (京都府)通妙寺にも墓所がある。
享年69。

[English Translation]