高師直 (KO no Moronao)

高 師直(こう の もろなお、生年不詳 - 正平 (日本)6年/観応2年2月26日 (旧暦)(1351年3月24日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代 (日本)の武将。
官位は武蔵国。
足利尊氏時代に執事室町幕府の執事をつとめた。
本姓は高階氏。
一般的には名字である「高」と、諱である「師直」の間に「の」を入れて呼ばれる。
兄弟には高師泰。

家系

源氏の棟梁、源義家の庶子と云われる高階惟章(実際は乳母弟か)が、義家の三男源義国とともに下野国に住したことに始まる。
以来高氏と称して、足利氏の執事職を代々つとめた。

生涯

高師重の子として生まれる。
足利尊氏の側近として討幕戦争に参加し、建武の新政においては、師泰と共に窪所・雑訴決断所の役人に任じられている。

1338年、尊氏が征夷大将軍に任じられ室町幕府を開く。
師直は将軍家の執事として絶大な権勢を振るった。

南北朝の動乱では、延元3年/建武 (日本)5年(1338年)に和泉国堺浦で北畠顕家を、正平3年/貞和4年(1348年)の四條畷の戦いでは楠木正行・楠木正時兄弟らを討った。
さらには吉野へ攻め入って南朝方を賀名生(奈良県五條市)へ撤退させるなど、主に軍事面で活躍した。

幕府内部は、将軍尊氏と政務を取り仕切る足利直義の足利兄弟による二頭制となっていたため、やがて両者の間に利害対立が頻発。
師直は直義と性格的に正反対だったこともあって直義との対立が次第に深まっていき、幕府を二分する権力闘争へと発展していく。
やがて、直義側近の上杉重能・畠山直宗らの讒言によって執事職を解任された師直は、師泰とともに挙兵して京都の直義邸を襲撃する。
さらに直義が逃げ込んだ尊氏邸をも包囲して、尊氏に対して直義らの身柄引き渡しを要求する抗争に発展した。
尊氏の周旋によって和議を結んだものの、直義を出家させて引退へと追い込み、幕府内における直義ら反対勢力を一掃した。
しかし、一説にこの騒動は、師直と尊氏の示し合わせによるものといわれる。

直義の出家後、師直は将軍尊氏の嫡子の足利義詮を補佐して幕政の実権を握る。
正平5年/観応元年(1350年)、直義の養子の足利直冬討伐のために尊氏と共に播磨へ出陣する。
しかし、この際に直義は京を脱出して南朝に降参、南朝・直冬と共に師直誅伐を掲げて挙兵した(観応の擾乱)。
正平6年/観応2年(1351年)、摂津国打出浜の戦いで直義・南朝方に敗れた尊氏は、師直兄弟の出家を条件に和睦した。
ところが、師直は摂津から京への護送中、待ち受けていた上杉能憲によって武庫川畔(現兵庫県伊丹市)において、師泰ら一族とともに処刑される。

物語での描写

古典『太平記』では、師直は神仏を畏れない現実主義的な人物であるとのエピソードが幾つか記されている。
特に天皇家の権威に対しても、「日本国王(天皇)だの、院は必要なら木彫りや金の像で作り、生きているそれは流してしまえ」と発言したことが記されている。
ただし、このような態度は帥直に限られたことではなく、他の幕府高官にも天皇家の権威をさほど重んじない人間は少なくなかった。
足利幕府は、古代のような統治者としての天皇権力の完全復活を目指す南朝に対抗して成立した。
幕府内の武士の間では、南朝側の武士より平均して天皇家の権威・権力を重んじない傾向があった。

また、師直が塩冶高貞の妻に横恋慕し、恋文を『徒然草』の作者である吉田兼好に書かせ、これを送ったが拒絶される。
怒った師直が高貞に謀反の罪を着せ、塩冶一族が討伐され終焉を迎えるまでを描いている。

『仮名手本忠臣蔵』は、元禄時代にあった元禄赤穂事件を『太平記』の設定に仮託している。
浅野長矩を塩冶判官(塩冶高貞)、吉良義央を高師直とし塩冶判官の妻への横恋慕を発端として描いている。
塩冶の「塩」は長矩の領地赤穂市の特産品、高師直の「高」は義央の役職「高家」に通じる。

人物評

古典『太平記』に記される逸話や後世の創作などによって、高兄弟は「悪逆非道」の烙印を押されている。
しかし、師直の悪逆非道を伝える貴族の日記や太平記の描写には、配下の武士の荘園の横領を認めていたなどの話が出てくるが、荘園の横領は、師直に限らず当時の武士一般に見られる行動であった。
貴族や寺社勢力に対して協調的であった直義派の有力武将、斯波高経すらも興福寺の荘園横領によって、春日神木を担ぎ込まれて強訴された実例がある。
また、幕府内には鎌倉幕府以来の武士層とかつては悪党と呼ばれた人々や惣領の傘下に入ることを余儀なくされた庶子層などからなる新興武士層が存在した。
前者及び貴族や寺社などの守旧的な勢力が直義を、彼らからの圧迫を排除して在地における支配権の保障を求めた後者が師直を支持したとされている。
この時代の知識階層で多く記録を残した貴族・寺社勢力は彼らに反抗する新興武士層や彼らの擁護者である足利氏との対立も有ったと思われる。

また、師直は大規模な合戦の中で軍の機動性を発揮させるため、分捕切捨の法を初めて採用した。
これは、戦功確認として斬った敵将の首を一々軍奉行に認定されるまで後生大事に持っているのではなく、近くにいる仲間に確認してもらったらすぐその場に捨てよというものだった。
当時としては画期的であると評される軍令で、師直の合理主義者的側面を証明する実例とされる。

『太平記』には師直の心の広さを伝えていると評される逸話がある。
四条畷の戦いにおいて楠木正行の軍による攻撃が始まった際、上山高元(六郎左衛門)という家臣が師直の陣中に訪ねていた。
上山は鎧も持たずに師直の陣を訪れていたため、この危機を乗り切るべく、師直の鎧を一領拝借しようとした。
それを見咎めた師直の配下との争いの最中に、鎧の持ち主である当の師直が通りかかった。
師直は「今、師直にかわって働いてくれようとする者に、なにを鎧一領ごときを惜しもうぞ」と言い、上山にその鎧を与えたのである。
この四条畷の戦いでは楠木正行率いる南朝の猛攻撃に遭い、師直は窮地に立たされた。
しかしそこへ上山が突如現れ、師直の身代わりとなり討死したという。

その他

京都国立博物館所蔵の『騎馬武者像』は伝足利尊氏として歴史教科書などでも知られていた。
しかし、近年はこれに懐疑的な見方が一般的で、画像の人物は師直もしくは高師冬であるという説もある。

[English Translation]