高重茂 (KO Shigemochi)
高 重茂(こう しげもち、生年不詳 - 正平 (日本)23年/応安元年(1368年)?)は、南北朝時代 (日本)の武将。
本姓は高階氏。
高師重の子(異説として、高師茂の子とも)。
高師直と高師泰の弟に当たる。
官位は駿河国守。
大和国権守。
兄達と共に足利尊氏に仕えて、1335年から始まる新田義貞との戦いにおいて武功を挙げた。
その後も尊氏の九州落ちにも従った。
多々良浜の戦いで菊池武敏とも戦い、武功を挙げている。
この時のエピソードとして、尊氏は「敗れた菊池軍の捕虜が信用できない」として一部を殺害しようとしたが、重茂は「寛大な処置を示すためにも、信用して殺害をやめるべきである」と尊氏に進言して、多くの捕虜を救ったと言われている。
その後も京都における戦いなどで武功を挙げたため、1337年に武蔵国守護に任じられた。
1338年にも北畠顕家との戦いで功績を挙げた。
その後は尊氏の天竜寺建立に尽力した。
また、尊氏の弟・足利直義の与力となって所領訴訟に関する奉行などを務めている。
1343年に駿河守に叙任した。
翌年からは関東の執政を務めている。
観応の擾乱での、重茂の詳しい動きは不明であるが、重茂は直義と親しい仲にあったことから、直義に与していたのではないかと推測される。
ちなみに高氏の多くがこの乱で殺害されているのに対し、重茂は生き延びており、以後は鎌倉公方・足利基氏の家臣として仕えているのである。
1368年、武蔵国で宇都宮氏らが首謀した鎌倉府への反乱が起こった際に、重茂もこの反乱に与していたと言われている。
反乱は9月に鎮圧されたが、このときに重茂は死亡したと言われている。
生存説もあるが、この反乱の後の重茂の消息は不明である。