鬼庭綱元 (ONINIWA Tsunamoto)

鬼庭 綱元(おににわ つなもと、天文 (元号)18年(1549年) - 寛永17年5月24日 (旧暦)(1640年7月13日))は、伊達氏の武将。

父は鬼庭良直。
子に茂庭良元・茂庭実元。
片倉喜多の異母弟で、片倉景綱は異母姉の異父弟に当たる。

遠祖は斎藤氏(越前国藤原氏)とされる。
伝承によると、山城国八瀬の国人・斎藤基良(内蔵人行元、斎藤実盛の孫、盛房(実俊)の子とする)という人物が山城国から、伊達郡茂庭村(現福島市飯坂町茂庭)に移住した。
ヤマタノオロチによって鬼庭氏と称するようになったのが始まりと伝わる。

経歴

1585年、父が人取橋の戦いで奮戦し戦死したためにその家督を継ぐ。
親族の小十郎景綱とともに伊達政宗からの信任は厚かった。
行政手腕にも優れていたため、翌年に綱元は38歳の若さで老臣を差し置いて奉行となった。
1588年には百目木城を任されている。

1590年、豊臣秀吉が主君・政宗に対して謀反の嫌疑をかけてくると、綱元は上洛してこれを陳弁している。
このとき、秀吉は綱元の才能を気に入って、愛妾のお種(香の前)殿を妻として与えている。
しかし、これは政宗に無断で賜ったため政宗の怒りを買い、1595年に出奔した。

その後は政宗に従って葛西大崎一揆や文禄の役での名護屋在陣に従う。
さらには政宗の庶長子・伊達秀宗が伊予国宇和島藩に移封されると、政宗から秀宗の補佐と藩政の指導を任されている。
いわば綱元は、伊達氏における信任厚い行政官僚であった。

1600年、伊達政宗に命じられ上杉領の湯原城を攻略した。

文禄の役で名護屋に滞在した際、豊臣秀吉が鬼庭という姓は縁起が悪いとして、鬼庭を茂庭(もにわ)に改めさせたという。
なお、栗原市に残る茂庭町は、伊達政宗の移封後、茂庭綱元の知行地となった土地である。

[English Translation]