お梅 (Oume)
お梅(おうめ、生年不詳-文久3年9月16日 (旧暦)もしくは9月18日 (旧暦)(1863年10月30日))は江戸時代末期の女性。
生涯
お梅の名は新撰組幹部永倉新八が書き残した『浪士文久報国記事』や『新選組顛末記』に新撰組筆頭局長芹沢鴨の愛妾として出ている。
お梅の素生や芹沢との馴れ初めは昭和になって小説家の子母澤寛が八木為三郎(新撰組が屯所としていた八木家の子息)からの聞き書き『新撰組始末記』『新撰組遺聞』に詳しく載っている。
為三郎の証言によるとお梅は京都西陣に生まれ、嶋原のお茶屋にいたらしい。
その後、太物問屋(呉服商)菱屋太兵衛の妾になっていた。
年の頃は22~23歳ぐらいだった。
芹沢は菱屋から買い物をするが代金を払わなかった。
菱屋は番頭を屯所へやって催促するが芹沢は払おうとしない。
乱暴者で京の人々から壬生狼と恐れられた相手だけにしつこく催促すると何をするか分からない。
そこで菱屋は女ならばあたりも柔らかろうとお梅を催促へやった。
お梅は垢ぬけて愛嬌がよい、隊士たちが評判にするような凄い美人だった。
芹沢は二三度追い返すが、ある日、借金の催促に来たお梅を部屋に連れ込んで手ごめにしてしまった。
女は分らないもので、最初は嫌がっていたお梅もそのうちに自分から芹沢の元へ通うようになった。
その頃、壬生浪士組では芹沢ら水戸派と近藤勇ら試衛館派との間で主導権争いが起きていた。
文久3年(1863年)9月16日(18日とも)、新撰組は島原の角屋で芸妓総揚げの宴会をする。
その日の暮れ前にお梅が八木家にやって来た。
そのうち、水戸派の平間重助の馴染みの芸妓の輪違屋の糸里、そして平山五郎の馴染みの桔梗屋吉栄もやって来た。
芹沢たちが留守なのでお梅は親しい吉栄や八木家の女中とお勝手で談笑していた。
夜になって芹沢、平山、平間そして副長の土方歳三(試衛館派)が帰ってきた。
お梅たちを呼んで酒宴の続きをし、土方は芹沢たちをすっかり酩酊させた。
泥酔した芹沢は奥の十畳間にお梅と寝入る。
屏風を置いて平山も吉栄と同衾。
平間は糸里と玄関口の部屋で寝た。
その夜は大雨が降っていた。
深夜、芹沢たちが寝ていた部屋に数人の男たちが押し入った。
平山を殺害、芹沢は切りつけられて起き上がるや真っ裸のまま八木家の親子が寝ていた隣室に飛び込むが、そこで刺客たちにずたずたに切り殺された。
芹沢と平山を殺すと刺客たちはすぐに立ち去った。
為三郎たちが芹沢の部屋へ様子を見に行くと、中は血の海で平山の首は胴から離れ、芹沢と寝ていたお梅は湯文字一枚をつけただけのほとんど全裸(この晩は芹澤と情交があったわけではなく、泥酔した芹澤がしきりに寒がるために自分の着衣も着せ掛けてやった上で肌で温めていたためだという。事件当夜は日中から雨天であり、ただでさえ気温は低めだった)で血だらけで倒れていた。
お梅の死体は首を切られ皮一枚で胴とつながっている状態だった。
別室にいた平間は逃亡。
吉栄と糸里もどこかへ消えてしまった。
長州藩の仕業とされたが、この夜の刺客は試衛館派の土方歳三、山南敬助、沖田総司、原田左之助という説が有力である。
幹部の芹沢と平山の死体は新撰組が引き取ったが、お梅は引き取り手がない。
芹沢の思い人なのだからいっしょに葬ってはどうかという意見もあったが、近藤が局長の芹沢とお梅のような売女を合葬することはできないと強硬に反対した。
9月20日に芹沢と平山の葬儀が神式で盛大に執り行われ、近藤が丁重な弔辞を読んだ。
お梅の死体は八木家に3、4日置かれたが夏場のことゆえ長く放置もできず、お梅の旦那の菱屋と交渉したが「暇を出した」と相手にされない。
困り果てた八木家が手を尽くして西陣のお梅の里へ引き取らせたとも、無縁仏として葬ったともいう。