フランシスコ・ザビエル (XAVIER Francis)

(1622年)以降に日本で作成されたと推定。
大阪府茨木市の隠れキリシタンであった家で1919年に発見。
神戸市立博物館蔵。

フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier または Francisco de Gassu y Javier, 1506年4月7日 - 1552年12月3日)は、カトリック教会の宣教師でイエズス会の創設メンバーの1人。

1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。
また、日本だけでなくインドなどでも宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれている。

カトリック教会の聖人で、記念日は12月3日。

名前について

ザビエルはバスク語で「新しい家」の意味であるEtxebarria(家 (etxe) + 新しい (barria))のイベロ・ロマンス風訛りで、彼の生家である城(ナバラ王国・現ナバラ州、バスク語ではナファロア王国)の名でもあった。
ChavierやXabierreなどとも綴られることもあるが、Xavierはポルトガル語で発音はシャヴィエル。
当時のカスティーリャ語でも同じ綴りで発音はシャビエルであったと推定される。

現代スペイン語ではハビエル Javier。
ただし、彼はバスク語及びナバラ語のバイリンガルだったと推定される。

かつて日本のカトリック教会では慣用的に「ザベリオ」(イタリア語読みから。サヴェーリョがより近い)という呼び名を用いていた(例:下記「聖ザベリョ宣教会」、「ザベリョ学院」)。
その他日本では「サビエル」も用いられる(例:下記「山口サビエル記念聖堂」)。

青年期まで

1506年4月7日生まれのザビエルは、現在のスペインのナバラ州、パンプローナに近いザビエル城で地方貴族の家に育った。
彼は5人姉弟(兄2人、姉2人)の末っ子で、父はドン・フアン・デ・ヤス、母はドーニャ・マリア・デ・アスピルクエタという名前であった。
父はナバラ王国王フアン3世 (ナバラ王)(フランス貴族アルブレ家の出である)の信頼厚い家臣として宰相を務め、フランシスコが誕生した頃、すでに60歳を過ぎていた。
ナバラ王国は小国ながらも独立を保ってきたが、フランスとスペイン(カスティーリャ王国=アラゴン王国)の紛争地になり、1515年についにスペインに併合される。
父フアンはこの激動の中で世を去った。
その後、ザビエルの一族はバスク人とスペイン、フランスの間での複雑な争いに翻弄されることになる。

1525年、19歳で名門パリ大学に留学。
バルバラ学院に入り、そこで自由学芸を修め、哲学を学んでいるときにピエール・ファーヴルに出会う。
さらに同じバスクから来た36歳の傷痍軍人の転校生イニゴ(イグナチオ・デ・ロヨラ)とも学寮で同室となる。
ザビエルはイグナチオから強い影響を受け、俗世での栄達より大切な何かがあるのではないかと考えるようになり、聖職者を志すことになる。
1534年8月15日、イグナチオを中心とした7人のグループは、モンマルトルにおいて神に生涯を捧げるという同志の誓いを立てた。
その中にザビエルの姿もあった。
これがイエズス会の起こりである。
1537年6月、ヴェネツィアの教会でビンセンテ・ニグサンティ司教によって、ザビエルはイグナチオら5人と共に司祭に叙階される。
彼らはエルサレム巡礼の誓いを立てていたが、国際情勢の悪化で果たせなかった。

東洋への出発

当初より世界宣教をテーマにしていたイエズス会は、ポルトガル王国王ジョアン3世 (ポルトガル王)の依頼で、会員を当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴア州に派遣することになった。
ザビエルはシモン・ロドリゲスと共にポルトガル経由でインドに発つ予定であったが、ロドリゲスがリスボンで引き止められたため、彼は他の3名のイエズス会員(ミセル・パウロ、フランシスコ・マンシリアス、ディエゴ・フェルナンデス)と共に1541年4月にリスボンを出発した。
8月にアフリカのモザンビークに到着、秋と冬を過して1542年2月に出発、5月6日ゴアに到着。
そこを拠点にインド各地で宣教し、1545年9月マラッカに、さらに1546年1月にはモルッカに赴き宣教活動を続け、多くの人々をキリスト教に改宗させた。

マラッカに戻り、1547年12月に出会ったのが鹿児島市出身のヤジロウ(アンジローとも)という日本人であった。
ヤジロウの話を聞いたザビエルの心の中で、まだキリスト教の伝わっていない日本に赴いて宣教したいという気持ちが強くなった。

日本を目指し、そして到着

ザビエルは1548年11月ゴアで宣教監督となり、1549年4月15日、イエズス会員コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス_(宣教師)修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、およびゴアで洗礼を受けたヤジロウら3人の日本人と共にゴアを出発、日本を目指した。

中国のジャンク船に乗った一行は中国上川島を経て1549年8月15日(カトリックの聖母の被昇天の祝日にあたる)に鹿児島(現在の鹿児島市祇園之洲)に上陸した。
1549年9月には伊集院の一宇治城で薩摩の領主島津貴久に謁見し、宣教の許可を得た。
ザビエルは鹿児島で布教する日々の中で、福昌寺の住職で友人の忍室(にんじつ)と宗教論争を行う事を好んだ。
ここで後に日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドなどに出会った。

1550年8月に、かねてから都に上ることが目標であったザビエルの一行は、島津貴久のはからいで平戸市へ向かうことができた。
そこでも宣教活動を行っていたが、ザビエルは平戸の信徒の世話のためにトーレス神父を残して、鹿児島のベルナルド、フェルナンデス修道士と共に都を目指した。

京都から山口へ

1550年11月、山口市に着いた一行は、なんとか領主の大内義隆に謁見できることになった。
が、男色を罪とするキリスト教の教えに大内が激怒したために山口を離れ、岩国市から海路堺市へと赴いた。
堺では幸運にも豪商の日比屋了珪の知遇を得ることができた。
了珪の助けによって1551年1月、一行は念願の京に到着した。
京都では了珪の紹介で小西隆佐の歓待を受けた。
日本国内での活動は了珪の邸宅の一部を借りて行われた。
その場所が現在では「ザビエル公園」(大阪府堺市堺区)として市民に開放されており、彼の宣教活動を顕彰する碑が建てられている。
なお、ザビエル公園より南側に位置する大小路筋は、堺が自治都市として栄えた時代のメインストリートで、近くには小西隆佐・小西行長の生家跡、千利休の屋敷跡、武野紹鴎の邸宅跡と伝えられる場所が存在する(石碑のみ)。

ザビエルは京で「日本国王」に謁見し、布教の許可を得れば全国での布教が自由になると考えていたが、京は戦乱で荒れ果て、足利幕府の権威は失墜しており、後奈良天皇が居住する御所も荒れ放題であった。
ザビエルは延暦寺で僧侶たちと論戦をしてみたかったが、比叡山から拒絶された。
天皇への拝謁も献上品がなければかなわないことを知ってあきらめたザビエルは、滞在わずか11日で失意のうちに京都を去ることになった。

1551年3月に平戸に戻ると、残していた贈り物用の品々を持って4月末山口へ向かい、再び大内義隆に拝謁した。
それまでの経験で、貴人と会見する時はどこでも外見が重視されることを知っていたザビエルは一行を美服で装い、珍しい文物を義隆に献上した。
義隆は喜んで布教の許可を与え、ザビエルたちのために住居まで用意した。
山口で布教しているとき、ザビエルたちの話を座り込んで熱心に聴く目の不自由な琵琶法師がいた。
彼はキリスト教の教えに感動し、ザビエルに従った。
彼が後にイエズス会の強力な宣教師となるロレンソ了斎である。

再びインドへ・ザビエルの最期

1551年9月、ポルトガル船が豊後に入港したという話を聞いて、ザビエルは豊後に向かった。
同地で22歳の青年領主大友義鎮(後の大友宗麟)に謁見している。
日本滞在も2年になり、ザビエルはインドからの情報がないのが気になっていたため、ここで一度インドに戻ることを決意し、11月15日トーレスらを残して出発、種子島、中国の上川島を経てインドに向かった。
このとき、ザビエルは日本人青年4人を選んで同行させた。
それが鹿児島のベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオの4人である。

1552年2月15日インドのゴアに到着。
司祭の養成学校である聖パウロ学院にベルナルドとマテオを入学させた。
マテオはゴアで病死するが、ベルナルドは学問を修めてヨーロッパに渡った最初の日本人となった。

1552年4月、日本布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国にキリスト教を広めることが重要であると考えていたザビエルは、バルタザル・ガーゴ神父を自分の代わりに日本へ派遣し、自分自身は中国入国を目指して9月に上川島に到着した(ここはポルトガル船の停泊地であった)。
しかし中国への入国はできないまま、体力も衰えていたザビエルは精神的にも消耗し、病を得て12月3日に上川島でこの世を去った。
46歳であった。

遺骸は石灰をつめて納棺し海岸に埋葬した。
1553年2月マラッカに移送。
さらにゴアに移され、1554年3月16日から3日間、聖パウロ聖堂にて棺から出され一般に拝観が許された。
そのとき参観者の1人の貴婦人が右足の指2個を噛み切って逃走した。
2個の足の指は、彼女の死後聖堂に返され、さらに1902年そのうちの1個がザビエル城に移された。
遺骸は現在ボン・ジェズ教会に安置されているが、右腕下膊は1614年ローマのイエズス会総長の命令で、セバスティアン・ゴンザーレスにより切断され、ローマ・ジェズ教会に移されている。
なお、この右腕は1949年ザビエル来朝400年記念のおり、腕型の箱に入れられたまま、日本で展示された。

なお右腕上膊はマカオに、耳・毛はリスボンに、歯はポルトに,胸骨の一部は東京になどと分散して保存されている。

ザビエルは1619年10月25日教皇パウルス5世 (ローマ教皇)によって列福され、1622年3月12日盟友イグナチオ・ロヨラと共に教皇グレゴリウス15世 (ローマ教皇)によって列聖された。

ザビエルはカトリック教会によってオーストラリア、ボルネオ、中国、東インド諸島、ゴア、日本、ニュージーランドの守護聖人とされている。

ザビエルと日本人

ザビエルは日本人を、「今まで出会った異教徒の中でもっとも優れた国民」であるとみた。
特に名誉心、貧困を恥としないことをほめ、優れたキリスト教徒になりうる資質が十分ある人々であるとみていた。
これは当時のヨーロッパ人の日本観から考えると驚くべき高評価である。
同時にザビエルが驚いたことの一つは、キリスト教において重い罪とされていた男色(同性愛)が日本において公然と行われていたことであった。

布教は困難をきわめた。
初期には通訳を務めたヤジロウのキリスト教知識のなさから、キリスト教の神を「大日如来」と訳して「大日を信じなさい」と説いたため、仏教の一派と勘違いされ、僧侶に歓待されたこともあった。
ザビエルは誤りに気づくと「大日」の語をやめ、「デウス」というラテン語をそのまま用いるようになった。
以後、キリシタンの間でキリスト教の神は「デウス」と呼ばれることになる。

日本国内の教会

日本国内にはザビエルの名を冠する教会が35ある。
そのうち、以下の教会にはザビエルの遺骨が安置されている。

山口サビエル記念聖堂

鹿児島カテドラル ザビエル教会

神田教会(東京)

また、東京カテドラル聖マリア大聖堂には、ザビエルの胸像型の聖遺物容器が展示されている。

日本国内の団体

聖ザベリオ宣教会

ザベリオ学園(無原罪聖母宣教女会)

郡山ザベリオ学園

会津若松ザベリオ学園

日本国外の教会

ザビエルの生涯とゆかりの深いスペイン、フランス、中国等、またカトリックが社会の大勢を占める諸国を中心に、世界各地にザビエルの名を冠する教会・施設が建てられている。
また一般に「プロテスタントの国」とみなされているアメリカ合衆国でも、旧スペイン・メキシコ領を含む等の事情から、ザビエルの名にちなむ教会・施設が数箇所存在する(下記一覧参照)。

スペイン
サン・フランシスコ・ハビエル教会(カセレス)(esIglesia_de_San Francisco_Javier_(Cáceres))
サン・フランシスコ・ハビエル教会(マドリード州ピント)(esIglesia_de_San Francisco_Javier_(Pinto))
フランス
サン・フランソワ・ザヴィエ教会(パリ)
- 教会の前に同名のメトロ (パリ)の駅がある。

フィリピン
聖フランシスコ・ザビエル教会(バタンガス州Nasugbu)
中華人民共和国
董家渡フランシスコ・ザビエル教会(上海市黄浦区)(zh董家渡圣方济各沙勿略堂) - 文化大革命中に閉鎖、破損したが、2000年に修復が完了、再開した。

アメリカ合衆国

聖フランシスコ・ザビエル教会(アイオワ州Dyersville)(enBasilica_of_St._Francis_Xavier)

サン・ハビエル・デル・バック伝道所(アリゾナ州ツーソン近郊)(enMission San Xavier del Bac) - 1699年にエウセビオ・キノによって設立。

ザビエルの名を冠していないが、ザビエルとゆかりの深い教会(日本国外)

ザビエル城付属礼拝堂(スペイン・ナバーラ州)
- ザビエルの出身地。
※「ザビエル」は彼以前からの地名(上記「人名について」参照)。

ボン・ジェズ教会(インド・ゴア州)
- ザビエルの遺体が安置されている。

ジェズ教会(イタリア・ローマ)
- ザビエルの遺体の一部が安置されている。

日本国内

大阪府

ザビエル公園(堺市堺区)

- 堺の豪商日比屋了慶が邸宅の一部をザビエルに提供した。
現在、その場所に彼の名前を冠した公園があり、園内には彼の功績を顕彰する碑が建てられている。

山口県

聖サビエル記念公園(山口市)

- 日本最初の教会跡地にある記念公園。
サビエル記念碑も設置されている。
また、毎年12月には日本のクリスマスは山口からフェスタが開催されている(1997年スタート)。
JR上山口駅または山口赤十字病院バス停で下車。

「聖フランシスコ・ザビエル下関上陸の地」の碑

- (下関市)唐戸市場そばにある。
1550年11月頃にザビエルが下関に上陸したことを記念している。

長崎県

ザビエル来航記念碑(平戸市大久保町「崎方公園」内)

- 1949年、ザビエル来日400年を記念して建立(ザビエルの平戸訪問は50年)。

ザビエル記念像(平戸市鏡川町)

- ザビエルの平戸来航を記念して、カトリック平戸教会(1931年建立)前に1971年建立。
同教会が「聖フランシスコ・ザビエル記念教会」の通称で呼ばれるようになるのはこの記念像の建立以降であり、本来の名称は「大天使聖ミカエル」である。

大分県

聖フランシスコ・ザビエル像(大分市大手町)

- ザビエルの来航を記念して遊歩公園内に建立。
左手に十字架を持ち、右手を掲げたザビエルの像で、彫刻家佐藤忠良による1969年の作品である。
背後には、世界地図のレリーフにザビエルのヨーロッパから日本にいたる航路を描きこんだモニュメントも設置されている。
JR大分駅から徒歩約10分。

大分トラピスト修道院展示室(大分県日出町南畑)

- 2008年イエズス会ローマ本部より聖フランシスコ・ザビエル右腕の小片(皮膚)が寄贈された。
展示室内に常時顕示されている。

鹿児島県

ザビエル来鹿記念碑(鹿児島市)

- 元は記念教会だったが太平洋戦争中に空襲で焼失。
1949年、ザビエル来航400年を記念して教会の廃材を使用し設置。
奥にはザビエルの胸像がある。
鹿児島市交通局「高見馬場」または「天文館通」電停下車。
※碑文の「鹿」は「麑」。

記念碑の立つ「ザビエル公園」内にはザビエル、ヤジロウ、鹿児島のベルナルドの銅像もあり(ザビエル来航450周年を記念して1999年設置)、また「鹿児島カテドラル・ザビエル教会」も公園に隣接している。

ザビエル上陸記念碑(鹿児島市)

- ザビエル一行が薩摩国祇園之洲あたりに上陸したことを記念して、鹿児島市祇園之洲公園に1978年に設置。
かつてこの公園(新祇園之洲)は浅瀬の干潟で1970年代の埋め立てによって作られた土地。
実際の上陸地は旧祇園之洲よりもさらに内陸の、稲荷川河口付近であったと考えられる。
鹿児島市交通局「祇園之洲公園」バス停下車。

ザビエル会見記念碑(日置市)

- 1949年、ザビエル来航400年を記念して、ザビエル一行が島津貴久に謁見したとされる伊集院一宇治城跡に設置。
JR伊集院駅下車、または鹿児島市から車で約30分。

日本国外

スペイン
ポルトガル
フランス
イタリア
インド
マレーシア
中国

ザビエルの名を冠した商品等

菓子業界(とくに九州)で、南蛮菓子をイメージして開発された菓子の商品名にザビエルの名が用いられる例がある。

「ざびえる」(大分県)
「ザビエルの誉」(熊本県・お菓子の香梅)
サビエルカンパーナ 山口県山口市に本社を置く外食産業チェーン。
社名は本社近くにある山口サビエル記念聖堂に由来。
「カンパーナ」(スペイン語:campana)は「鐘」の意。

その他

ザビエルの兄ミゲルの子孫であるルイス・フォンテスは、日本に帰化して泉類治と名乗って神父として活動をしている。
ルイスさんが日本でキリスト教徒でなくても教会で結婚式をあげられるように広めたとされている。

肖像画ではザビエルはトンスラであるが、実はザビエルの死後70年~80年くらいに日本人が本人を見ないで描いたもので、ザビエルの会派(イエズス会)にはトンスラの慣習がなかったので、トンスラではない説のほうが有力とされている。

[English Translation]