ベルナール・プティジャン (Bernard Thadee Petitjean)
ベルナール・プティジャン(Bernard Thadee Petitjean, 1829年6月14日 - 1884年10月7日)は、フランス出身のカトリック教会司祭である。
パリ外国宣教会会員として幕末の日本を訪れ、後半生を日本の布教にささげた。
1865年、大浦天主堂での「隠れキリシタンの発見」(信徒発見)の歴史的瞬間に立ち会ったことで有名。
生涯
フランス生まれのプティジャンは、1854年に司祭に叙階された。
1859年にパリ外国宣教会に入会し、日本への布教を志した。
当時の日本は、外国人の入国が困難であったため、とりあえず琉球に渡り、那覇市で日本語と日本文化を学んだ。
1862年(文久2年)についに横浜市に上陸することができ、翌年長崎に渡った。
任務は大浦の居留地に住むフランス人の司牧ということであった。
後にプティジャンは日仏通商条約にもとづいて長崎の西坂(日本二十六聖人の殉教地)を見ることができる丘の上に居留地に住むフランス人の為に教会を建築する許可を得た。
こうして建てられたのが大浦天主堂である。
プティジャン神父は1868年には日本代牧区司教に任命された。
1873年(明治6年)にキリシタン禁制が解かれると、長崎を拠点にキリスト教布教や日本人信徒組織の整備と日本人司祭の養成、教理書や各種出版物の日本語訳などに力を注ぎ、
1884年(明治17年)に大浦で死去し、大浦天主堂内に埋葬された。
信徒発見
大浦天主堂は当時珍しい洋風建築だったので評判になり、近くに住む日本人は『フランス寺』『南蛮寺』と呼び見物に訪れた。
プティジャンは訪れる日本人に教会を開放し、自由に見学する事を許していた。
プティジャンが本来居留フランス人の為に建てられた天主堂を、興味本位で訪れる日本人に対して解放し見学を許していたのには理由があった。
長崎がキリスト教殉教者の土地であることから、未だ信徒が潜んでいるのではないか、もしかすると訪れて来る日本人の中に信者がいるのではないかというわずかながらの期待があったからである。
1865年(慶応元年)3月17日の午後、プティジャンが庭の手入れをしていると、やってきた15人ほどの男女が教会の扉の開け方がわからず難儀していた。
彼が扉を開いて中に招き入れると、一行は内部を見て回っていた。
プティジャンが祭壇の前で祈っていると、一行の一人で杉本ゆりと名乗る中年の女性が彼のもとに近づき、「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ(私たちの信仰はあなたの信仰と同じです)」とささやいた。
浦上から来た彼らこそ300年近くの間、死の危険を犯してまでキリスト教の信仰を守っていた隠れキリシタンといわれる人々であった。
プティジャンは驚き、よろこんだ。
プティジャンはこの仔細をヨーロッパへ書き送り、大きなニュースとなった。
以後、続々と長崎各地で自分たちもキリシタンであるという人々が名乗り出てきた。
プティジャンは見学の振りをしながら訪れる日本人信者に対し、秘密裏にミサや指導を行う。
しかし堂々とキリスト教の信者である事を表明する者が現れたため、江戸幕府やキリスト教禁教政策を引き継いだ明治政府から迫害や弾圧を受ける事になる(詳しくは浦上四番崩れの項参照の事)。
しかしプティジャンによるキリスト教徒発見と、明治政府による一連の弾圧行為の情報が欧米諸国を動かし、日本政府に対しキリスト教弾圧政策に圧力をかける結果に繋がり、江戸時代より禁教とされてきたキリスト教信仰の復活のきっかけとなった。