一条能保 (ICHIJO Yoshiyasu)
一条 能保(いちじょう よしやす、久安3年(1147年) - 建久8年10月13日 (旧暦)(1197年11月23日))は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。
父は藤原通重(丹波国守)。
母は藤原公能(右大臣)の娘。
妻は源義朝の娘で源頼朝の同母姉妹である坊門姫 (一条能保室)。
後の摂関家の一条家とは直接の関係はない(摂関家の一条家の祖である一条実経は女系で能保の親族呼称にあたる)。
子に一条高能、一条実雅、信能、尊長、中院通方室、西園寺公経室、九条良経室。
生涯
父方の祖母は後白河天皇の同母姉統子内親王乳母一条で能保は後白河法皇ー上西門院に近い立場にあった。
また、母は当時宮中で勢力を保っていた閑院流の流れを汲む徳大寺家出身であった。
仁平三年(1153年)上西門院御給により叙爵、保元2年(1157年)十一歳にして丹波国守に任官されるが同時期に父が死去。
その後は父が早世した影響か、暫くの間は国司には任官されなかった。
その後は母方の縁に連なる徳大寺家出身の太皇太后藤原多子に太皇太后権亮として仕え、その一方で父方の祖母が仕えている上西門院からも位階をさずかり、この時期徳大寺家、上西門院に近い存在であったが太皇太后職以外の官職には恵まれていなかった。
この間に源義朝の娘で源頼朝の同母姉妹である坊門姫 (一条能保室)を妻に迎えている。
なお、坊門姫の母方は上西門院に近い存在であることが指摘されている。
1180年、治承寿永の乱が発生。
治承寿永の乱の初期の間の能保の動向は明らかではないが、都が木曽義仲の勢力下にあった1183年頃、その圧迫を逃れて東国に下ったとの記載が「愚管抄」にあり、また1184年には平頼盛などとともに鎌倉に滞在していることが「吾妻鏡」に記載されている。
平氏が滅び、頼朝が新たな権力者となると、この縁が極めて有効となり、頼朝からも全幅の信頼を寄せられるようになる。
頼朝にとっては、存命の同母の兄弟姉妹は能保の妻だけだったのである(同母弟の源希義は早い段階で戦死、源義経などは異母弟に過ぎない)。
結果、頼朝の威光を背景に、讃岐守・左馬頭・右兵衛督・参議・左兵衛督・検非違使別当・権中納言・従二位と異例の栄進をする。
また、頼朝の父の菩提寺勝長寿院の造営に関しては頼朝とともに造営の下見をしたり、同寺院の落成式には頼朝の姉妹である妻とともに参列している。
またその後都に戻ると幕府の京都の出先機関のような存在になり、頼朝と対立した義経やその係累の捜索の指揮をとったりしている。
能保自身は後白河天皇(法皇)に仕えて重用され、妻や娘は後鳥羽天皇の乳母となった。
さらに頼朝から京都守護に任命されるなど、頼朝からの信任は厚く、九条良経(九条兼実の子)や西園寺公経を娘と娶わせ、花山院兼雅や土御門通親とも姻戚関係を結ぶなど、朝廷や幕府に広いネットワークを形成し、有力な実力者にのし上がった。
建久5年(1194年)8月、病に倒れて出家し、保蓮と号した。
建久8年(1197年)10月13日、51歳で死去。
なお、4代将軍九条頼経は頼朝の同母姉妹である彼の妻の曾孫であることを理由に将軍に据えられている。