一条高能 (ICHIJO Takayoshi)
一条 高能(いちじょう たかよし、安元2年(1176年) - 建久9年9月17日_(旧暦)(1198年10月19日))は、鎌倉時代初期の公卿・政治家。
父は一条能保、母は源義朝の娘・坊門姫 (一条能保室)。
源頼朝は伯父にあたる。
元暦元年(1184年)に叙爵されると、左馬頭・右兵衛督・蔵人頭などを歴任する。
一方で鎌倉幕府からは京都守護に任じられて頼朝の娘・大姫 (源頼朝の娘)との縁談が進められた(大姫の拒絶にあい破談)。
後に松殿基房の娘を妻として一条頼氏を儲けた。
当時、朝廷の中枢にあった源通親は、政敵である九条兼実や彼と結びつく源頼朝と対立関係にあった。
しかし、兼実失脚後は頼朝の鎌倉幕府の権威の増大に対してこれと融和して政権維持を図った。
高能の急激な昇進の背景には通親が頼朝との連携を期待したものであったと言われている。
建久7年(1196年)には参議昇進、翌年には従三位叙位により公卿となるが、その翌年に23歳の若さで病死した。