一色義清 (ISSHIKI Yoshikiyo)
一色 義清
戦国時代の人物。
安土桃山時代の人物。
一色 義清 (左京大夫)
一色 義清(いっしきよしきよ、生没年不詳)は、戦国時代 (日本)の人物。
五郎。
官途は左京大夫。
一色氏当主。
先代当主は一色義有と思われるが継承時期や義有と義清との続柄との詳細は不詳である。
丹後国の守護を務めたが、若狭国武田氏の介入や守護代延永氏の下克上にあい国内は混乱した。
永正13年(1516年)から翌年にかけて同族一色九郎と争う。
義清は加悦城主石川直経と、九郎は守護代延永春信と結び戦いを繰り広げたが、加悦城を攻め落とされ一時没落したこともあったらしい(『東寺過去帳』)。
義清の動静は永正16年(1519年)まで判明している。
一色義幸の父(または祖父)と推定されることもある。
また、一説には土岐頼芸、次いで斎藤道三の側室となった深芳野の父ともいうが詳細不詳。
なお、深芳野の生んだ斎藤義龍は一色左京大夫を称している。
一色 義清 (越前守)
一色 義清(いっしきよしきよ、? - 天正10年(1582年))は一色氏最後の当主。
一色義道の弟。
吉原義清。
越前守。
丹後国の吉原城を領していた。
1582年、甥で一色氏の当主であった一色義定が細川幽斎に謀殺されたため、弓木城に入って一色氏の家督を継いだ。
しかし、すぐに細川の追討軍が現れて一色軍は壊滅し、義清は細川軍の本陣に斬り込みをかけて、下宮津の海辺で壮烈な最期を遂げたという。
義清の死により、室町幕府における四職の一角である丹後守護家一色氏は滅亡した。
なお、別系に古河公方に仕えた幸手城主一色氏がある。
こちらの系統は幕臣・水戸藩士として存続した。