三条西実条 (SANJONISHI Saneeda)
三条西 実条(さんじょうにし さねえだ、天正3年1月26日 (旧暦)(1575年3月8日) - 寛永17年10月9日 (旧暦)(1640年11月22日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した公家。
号は香雲院。
三条西家(家格は大臣家)当主。
父は内大臣・三条西公国。
祖父は三条西実枝。
弟に三条西公広がいる。
略歴
天正3年(1575年)三条西公国の長男として誕生。
翌年、叙爵。
侍従に任ぜられる。
慶長2年(1597年)参議となり、公卿に列する。
翌年従三位。
江戸幕府が開幕すると、武家(幕府)からの奏請を朝廷へ取り次ぐ折衝役として室町時代と同様、武家伝奏の職が設けられた。
実条は慶長18年7月11日 (旧暦)(1613年8月26日)武家伝奏に任ぜられ、幕府との交渉を担うこととなった。
元和 (日本)9年(1623年)には、幕府3代征夷大将軍・徳川家光の将軍宣下に際して上卿(口頭で天皇からの宣旨を伝える役)を務めた。
なお家光の乳母・春日局(斎藤福)は、父斎藤利三が主君明智光秀の起こした本能寺の変に従い、山崎の戦いに敗死した後、母方の親戚である三条西公国に引き取られ三条西邸で養育された過去があり、実条とも幼少より親交が深かった。
寛永6年(1629年)春日局が病中の家光の代理として上洛した際、御所へ昇殿する資格がなかった。
同年内大臣となった実条の義理の妹(猶妹)として縁組を行い、三条西家の女性の資格で参内し、後水尾天皇に拝謁を許されることとなった。
しかしこの強引な手法に、かねてから紫衣事件などで幕府の圧迫に不快を感じていた後水尾天皇は、二女の興子内親王(明正天皇)に譲位する事態となる。
この武家と朝廷の確執に際し、実条は終始幕府側の意向に忠実に従い、同役(武家伝奏)の中院通村が後水尾帝の意に沿って行動したのと対照的であった(通村は翌年罷免された)。
寛永12年(1635年)従一位に進み、同17年(1640年)6月には徳川家光の執奏により、三条西家としては異例の右大臣に任ぜられる。
(大臣家の極官は内大臣が通例であり、右大臣任官は近世では実条と中院通躬のみ)。
しかし、3ヶ月後の10月には辞退。
同月、武家伝奏の任のまま死去した。
子に三条西公勝、武者小路公種、西郊実号などがいる。
歌道
三条西家の家職は和歌であり、戦国時代 (日本)前期の当主・三条西実隆は当代随一の歌人と評された(実条の高祖父にあたる)。
実隆・三条西公条・三条西実枝の三代はいずれも歌道に優れており、家職として歌道を継承した(古今伝授)。
しかし実枝は子の公国が幼かったため、弟子の一人であった細川幽斎に中継ぎとして歌道を継承した。
公国成人後、幽斎は歌道を継承しようとしたが、公国は夭折した。
幽斎は改めて公国の子である実条に歌学伝授を行い、師・実枝との約束を果たした。
官職位階履歴