上杉憲房 (UESUGI Norifusa)
上杉 憲房(うえすぎ のりふさ)
鎌倉時代から南北朝時代にかけての人物。
前段を参照。
室町時代の人物。
上杉教房の子。
別名の上杉政藤を参照。
戦国時代の人物。
関東管領。
後段を参照。
上杉憲房(南北朝時代)
上杉 憲房(うえすぎ のりふさ)は、鎌倉時代、南北朝時代 (日本)の武将。
上杉氏初代上杉重房の孫で、室町初代征夷大将軍足利尊氏や足利直義の母方の伯父にあたる。
鎌倉幕府打倒に功があり、伊豆国の地頭職と上野国の守護職を与えられ、新田義貞を牽制する役を担った。
尊氏が建武の新政に反発し反乱を起こすとこれに従ってともに上洛したが、北畠顕家・新田義貞の反撃を受けたため尊氏は京都から九州へ逃走する。
憲房はこのときの戦いにおいて尊氏を逃がすため戦死した。
子の上杉憲顕は山内上杉家の、上杉憲藤は犬懸上杉家のそれぞれ祖となった。
上杉憲房(戦国時代)
上杉 憲房(うえすぎ のりふさ)は、日本の戦国時代 (日本)の大名。
上杉憲実の子で僧籍にあった周清(秀晟、周尋とも)の子。
関東管領上杉顕定の養嗣子として、山内上杉氏の当主となった。
顕定と共に長尾為景を討つため出陣し、上野国白井城に駐屯していたが、顕定が長森原の戦いにおいて戦死すると撤退する。
関東管領職は顕定の遺言により上杉顕実(足利成氏の子)が継いでいたが、憲房はこれと争って勝利し、1512年に山内上杉氏の家督を継ぎ、1515年の顕実の死によって関東管領職をも継いだ。
しかし家臣長尾景春の離反、扇谷上杉家の上杉朝興や相模国後北条氏の北条氏綱、甲斐国武田氏の武田信虎などとの長年の抗争による不安定な情況の中、病に倒れ、大永5年(1525年)3月25日、59歳で死去する。
後を古河公方足利高基の次男で養子の憲寛が継いだが、のちに憲寛は追放され実子の憲政が継いだ。