上杉謙信 (UESUGI Kenshin)

上杉 謙信/上杉 輝虎(うえすぎ けんしん/うえすぎ てるとら)は、戦国時代 (日本)における越後国の戦国大名。
後世、越後の虎とも越後の龍とも呼ばれた。

概要

上杉氏の下で越後国の守護代を務めた長尾氏出身で、初名は長尾景虎(ながお かげとら)。
兄である晴景の養子となって長尾氏の家督を継いだ。
主君・上杉定実から見て「正妻の甥」且つ「婿の弟」にあたる。

のちに関東管領上杉憲政から上杉氏の家督を譲られ、上杉政虎と名を変えて上杉氏が世襲する室町幕府の重職関東管領に任命される。
後に将軍足利義輝より偏諱(へんき)を受けて最終的には上杉輝虎と名乗った。
周辺の武田信玄、北条氏康、織田信長、佐野昌綱らと合戦を繰り広げた。
特に五回に及んだとされる武田信玄との川中島の合戦は、後世たびたび物語として描かれており、よく知られている。

自ら毘沙門天の転生であると信じていたとされる。
また、上杉謙信女性説もある。

生涯

家督相続

享禄3年(1530年)1月21日、越後国守護代・長尾為景の四男(または三男)・虎千代として春日山城に生まれる。

天文 (元号)5年(1536年)に兄の長尾晴景が家督を継ぎ、虎千代は城下の林泉寺 (上越市)に入門して住職の天室光育の教えを受けたとされる。
実父と仲が良くなかったため、為景から避けられる形で寺に入れられたこととされている。
天文12年(1543年)8月15日に元服して長尾景虎と名乗り、中越の長尾家領統治のため栃尾城に入る。

当時、越後では守護上杉定実が伊達稙宗の子・伊達実元(伊達実元)を婿養子に迎える件で天文の乱が起こっており、越後の国人衆も養子縁組に賛成派と反対派に二分されていたが、兄の晴景は病弱なこともあって内紛を治めることはできなかった。
景虎は元服した同年、病弱な晴景を侮り反乱を起こした越後の豪族を討伐することで初陣を飾った。

天文15年(1546年)には黒滝城城主の黒田秀忠が長尾氏に対して謀反を起こすと、景虎は、兄に代わって上杉定実から討伐を命じられ、総大将として黒田氏を滅ぼした。
するとかねてから晴景に不満をもっていた越後の国人の一部は景虎を擁立し晴景に退陣を迫るようになり、晴景と景虎との関係は険悪なものとなった。

天文17年(1548年)、定実の調停のもと、12月30日、晴景は景虎を養子とした上で家督を譲って隠退する。
景虎は長尾氏の本拠である春日山城に入り、19歳で家督を相続し、越後守護代となる。

2年後の天文19年(1550年)には、定実が後継者を遺さずに死去したため、将軍・足利義輝は景虎の越後国主の地位を認めた。
同年、一族の坂戸城主・長尾政景(上田長尾家)が景虎の家督相続に不満を持って反乱を起こした。
しかし景虎は、翌年天文20年(1551年)に鎮圧している。

川中島の戦い

天文年間には甲相駿三国同盟を背景とした甲斐の武田信玄による信濃侵攻と相模の北条氏康による北関東侵攻が本格化しており、甲相同盟により相互に出兵した両者の侵攻により、景虎は二正面作戦を余儀なくされる。
氏康による攻勢を受けていた上野国平井城に拠る関東管領の上杉憲政が、越後に対して救援を求めると景虎はただちに出兵して北条軍を破り、憲政を平井城へ戻した。
越後の隣国・上野へ力を伸ばす北条氏は、越後の安全を確保する上でも脅威だったためである。

天文21年(1552年)1月、上杉憲政を越後に迎える。
4月23日、従五位下弾正少弼に叙任する。
天文22年(1553年)9月、上洛して後奈良天皇および室町幕府第13代将軍・足利義輝に謁見している。

同年、甲斐国の武田晴信の信濃侵攻によって領地を追われた村上義清・高梨政頼(景虎の叔父)らの信濃国人が領地復権を望んで景虎のもとへ逃亡してくると、8月にはこれに応じて信濃に出兵し、川中島(長野市南郊)で晴信と対峙する(第1次川中島の戦い)。

天文23年(1554年)、家臣の北条高広(きたじょう たかひろ)が武田と通じて謀反を起こしたが、天文24年(1555年)には自らが出陣してこれを鎮圧した。
4月、晴信と川中島で再び対峙したが(第2次川中島の戦い)、決着はつかず対陣5ヶ月に及んだ。
最終的には駿河国の今川義元の仲介のもとに和睦して撤退した。

ところが弘治_(日本)2年(1556年)6月、出家すると宣言して高野山(一説に比叡山)に向かう。
この頃、武田氏との抗争や家臣同士の領土争いの調停で心身が疲れきっていたとも言われているが、天室光育、長尾政景らの説得で出家を断念した。
弘治3年(1557年)4月、川中島に出陣する(第三次川中島の戦い)。
しかし武田軍とは睨み合いに終始し、さらに越中で一向一揆が起こったため、撤退を余儀なくされた。

関東管領就任

永禄2年(1559年)4月、再度上洛して正親町天皇や将軍・足利義輝に拝謁する。
このとき、義輝から管領並の待遇を与えられた(上杉の七免許)。
景虎と義輝との関係は親密なものであったが、義輝が幕府の重臣である大舘晴光を派遣して景虎・晴信・氏康の三者の和睦を斡旋し三好長慶の勢力を駆逐するために協力するよう説得した際には、三者の考え方の溝は大きく実現しなかった。

永禄3年(1560年)3月、越中に出陣し、神保長職を破って椎名康胤を援けた。
5月、関東に出陣して厩橋城で越年する。
武蔵松山城 (武蔵国)を攻め落とし、永禄4年(1561年)3月に関東管領・上杉憲政を擁して長野業正、小山秀綱、小田氏治、那須資胤、佐竹義重 (十八代当主)、太田資正、三田綱秀、成田長泰ら旧上杉家家臣団10万の大軍で小田原城を包囲する。

また小田原へ向かう途上には、関東公方の在所で当時は関東の中心と目されていた古河御所を制圧し、北条氏の傀儡であった足利義氏 (古河公方)を放逐のうえ足利藤氏(本来の正統な古河公方)を替りに古河御所内に迎え入れた。

しかし小田原城自体は、落城させることができず、1ヶ月後に鎌倉に兵を引いた。
しかし、この間に景虎は、上杉憲政の要請もあって鎌倉府の鶴岡八幡宮において閏3月16日、山内上杉家の家督と関東管領職を相続、名を上杉政虎(うえすぎ まさとら)と改めた。

関東管領の職は本来、古河公方(鎌倉公方)を助けることが職務であるため、北条に侵略されていた古河御所の奪還と、本来の正統な相続者である足利藤氏を古河公方に擁立することに成功した景虎は朝廷および幕府からも関東の諸大名からも認められた上杉氏の家督相続と関東管領就任であった。

もともと上杉家は足利氏の外戚として名門の地位にあり、関東管領職はその縁で代々任じられてきた役職であった。
長尾家は上杉家の家臣筋であり、しかも上杉家の本姓が藤原氏なのに対して長尾家は桓武平氏であった。
異姓にして家臣筋の長尾景虎が上杉氏の名跡を継承するに至った背景には、かねてから上杉家に養子を招くことを望んでいた上杉憲政が、上杉家から養子を出したことのある佐竹氏からの養子を断られ、苦悩の末に越後国の実力者である長尾景虎に継がせたという経緯がある。

ただし、藩翰譜によると、政虎自身が上杉頼成の男系子孫であるという記述がある。
応仁武鑑や萩原家譜案にも、上杉頼成の男子(長尾藤景)が長尾氏へ入嗣した旨が記されている。
しかし、他の系図では上杉家から養子を迎えたのは下総に分家した長尾であって、越後長尾氏には直接関係無いとする系図がほとんど(長尾景為或いは長尾景能の流れ)である。
実際の血統が繋がっていなくとも、長尾家も佐竹家と同じく上杉家からの養子を迎えた家系ということになる。

武田信玄・北条氏康との戦い

帰国後の永禄4年(1561年)8月、1万3000の兵を率いて川中島に出陣する(第4次川中島の戦い)。
このとき、武田軍と大決戦に及んだ。
信玄の実弟である武田信繁・武田軍軍師山本勘助らを討ち取ったが、上杉軍の死傷者も甚大で、結局痛み分けに終わった。
11月、再び関東に出て氏康と戦う(生野山合戦)。
しかし川中島における軍勢の被害が甚大であり積極的に戦うことができず撤退する(内閣文庫所蔵・小幡家文書)。

その後は成田長泰や佐野昌綱を始め、武蔵国の同族上杉憲盛までもが北条方に降る。
政虎は上野・武蔵・常陸・下野・下総などで転戦したが、関東における領土は主に東上野にとどまった(但し謙信没時、上野・下野・常陸の豪族の一部は上杉方)。
12月、将軍義輝の一字を賜り、諱を輝虎(てるとら)と改めた。

武田信玄と北信濃をめぐって川中島の戦いを行うが決着は着かなかった。
結局のところ信濃の北辺の一部を掌握したのみで、村上氏、高梨氏らの旧領を回復することはできなかった。
永禄5年(1562年)7月と9月、越中に出陣して椎名康胤を圧迫する神保長職を降伏させた。
永禄7年(1564年)、信玄と手を結んで越後へ攻め込んだ蘆名盛氏軍を撃破。
その間に信玄が信濃野尻城 (信濃国)を攻略したが奪還し、後に川中島で再び対峙した(第5次川中島の戦い)。
しかし60日に及ぶ対峙の末に撤退し、決着は着かなかった。

関東の戦線では輝虎が永禄5年(1562年)に上野館林城主の赤井氏を滅ぼした。
その後は武蔵の成田氏、下野の小山氏、下総の結城氏を降伏させた。
永禄7年(1564年)には下野の佐野氏を数度降伏させた。
永禄9年(1566年)には常陸の小田氏を再び降伏させ、下総の千葉氏の拠点である臼井城へ攻め寄せた。
だが、城自体は陥落寸前まで追い詰めたものの結果的には撤退することとなった。

さらにちょうどその頃、武田信玄が上杉方の西上野を次々と平定し、長野氏や倉賀野氏を滅ぼした。
輝虎は信玄の攻勢を食い止めようと上野和田城を攻めたが失敗する。
そのため謙信に味方・降伏していた関東の豪族らが次々と北条に降る。
上野厩橋城の北条高広まで北条に寝返った。
さらに輝虎は奥州進出を目指す常陸の佐竹氏とも対立するようになる。

永禄11年(1568年)、新しく将軍となった足利義昭からも関東管領に任命された。

永禄11年(1568年)、越中の一向一揆と椎名康胤が武田信玄と通じたため、越中を制圧するために松倉城 (越中国)・守山城 (越中国)を攻撃したが、5月に信玄と通じた重臣の本庄繁長の謀反のため越後に戻った。
11月に繁長の謀反を鎮圧。
12月、武田と断交した今川氏真に救援を懇願される。
永禄12年(1569年)には蘆名盛氏の仲介を受け、本庄繁長から嫡男・本庄顕長を人質として差し出させることで、繁長の帰参を許した。
また繁長と手を結んでいた出羽の大宝寺義増も輝虎に降伏し、出羽庄内地方を手にする。

永禄12年(1569年)3月、武田信玄を牽制するため関東管領である輝虎にとっては宿敵である北条氏康と同盟する(越相同盟)。
この同盟に基づき、上野国の北条方の豪族は輝虎に降る。
北条高広も帰参が許された。
元亀元年(1570年)、氏康の7男(異説あり)である北条三郎を養子として迎えた輝虎は、三郎のことを大いに気に入って上杉景虎という自身の初名を与えるとともに、一族衆として厚遇したという。
12月には法号「不識庵謙信」を称した。

越中・関東出兵

元亀2年(1571年)、北条氏康が死去し、後を継いだ北条氏政は上杉との同盟を破棄、武田信玄と再び和睦したため、その後両軍と利根川を挟み対陣した。
8月、北国に矛先を転じ、越中国の一向一揆勢力らと戦い富山城を奪う。
11月、大規模に動員した信玄と交戦状態に入った、織田信長の同盟の申し出を受ける。
その後越中に出陣したが、信玄に通じて反乱を起こした一向一揆に悩まされた。
年末まで一向一揆と戦った末に、これを制圧した。

元亀4年(1573年)、宿敵・武田信玄が病没して武田氏の脅威が薄らぎ越中の過半を制圧、江馬氏の服属で飛騨にも力を伸ばした。
同年に北条氏政が上野に侵攻、これに対するため天正2年(1574年)、関東に出陣して新田金山城主の由良氏を攻撃して戦果をあげた。

北条氏政が下総関宿城の簗田氏を攻撃するや、謙信は北条方の武蔵騎西城・忍城・鉢形城下など諸城を相次いで攻めて後方かく乱を狙ったが失敗、関宿城は降伏してしまった。
同年12月19日、剃髪して法印大和尚に任ぜられる。
天正3年(1575年)1月11日、養子の喜平次顕景の名を上杉景勝と改めさせ、弾正少弼の官途を譲った。

織田信長との戦い

天正4年(1576年)2月、信長との戦いで苦境に立たされていた本願寺顕如と講和する。
このとき、武田勝頼とも和睦して信長との同盟を破棄し、新たに謙信を盟主とする信長包囲網を築き上げたのである。

越中・能登(畠山領)への援軍

天正4年(1576年)9月、名目上管領畠山氏が守護をつとめる越中に侵攻して一向一揆支配下の富山城、増山城を落とした。
次いで椎名康胤(越中守護代)の蓮沼城を陥落させ康胤を討ち取り、騒乱の越中を平定した。

同11月、能登に進み能登の七尾城を囲んだ(七尾城の戦い)。
しかし七尾城は堅城であり、攻めあぐんで越年する。
天正5年(1577年)、春日山に一時撤退した。
その間に敵軍によって上杉軍が前年に奪っていた能登の諸城は落とされたが、閏7月、再び能登に侵攻し、七尾城を包囲する。
このとき、城内で疫病が流行、厭戦気分が蔓延した。
9月15日に遊佐続光(能登守護代)らが謙信と通じて反乱を起こした。
織田信長と通じていた長続連らは殺され、七尾城は落城し能登の傀儡国主である畠山春王丸も病により没したため、能登は上杉謙信の支配下に入った。
上杉謙信には名門畠山家の復興が思慮にあり、有力国人を廃したうえで畠山義春を能登の国主として擁立する計画であったといわれている。

また、この戦いの後、畠山義隆の息子を養子にすると書かれた謙信書状が出されており、この子は春王丸自身や実際には畠山義続の子であるとも言われる。

織田軍との交戦

一方、長続連の援軍要請を受けていた織田氏は、柴田勝家らの先発隊3万、信長率いる本隊1万8000が加賀国に向かっていた。

謙信はこれを迎え撃つため、9月17日に末森城 (能登国)を落とし、9月18日には松波城を攻め落とした。
9月23日、柴田勝家率いる織田軍は、手取川を渡河したところでようやく七尾城の陥落を知った。
慌てた勝家は撤退命令を出したが、さらに松任城に進軍した上杉軍は手取川の渡河に手間取る織田軍を追撃して撃破したとされる。
なお、戦いの規模については諸説ある。

最期

天正5年(1577年)12月18日、謙信は春日山城に帰還し、12月23日には次なる遠征に向けての大動員令を発した。
天正6年(1578年)3月15日に遠征を開始する予定だったらしい。
しかしその6日前である3月9日、遠征の準備中に春日山城で倒れ、3月13日、急死した。
享年49。
倒れてからの昏睡状態より、死因は脳溢血と言われている。
遺骸には鎧を着せ太刀を帯びさせて甕の中へ納め漆で密封した。
この甕は上杉家が米沢に移った後も米沢城本丸一角に安置され、明治維新の後、歴代藩主が眠る御廟へと移された。

未遂に終わった遠征では上洛して織田信長を打倒しようとしていたとも、関東に再度侵攻しようとしていたとも言われているが、詳細は不明(近年の研究では関東侵攻説が有力になりつつある)。
『その時歴史が動いた』(日本放送協会、2007年4月4日放送)では、「関東侵攻後、信長を打倒し京へ上洛」が有力説とされた。

辞世

「極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし」

「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」(「嗚呼 柳緑 花紅」と続く史料もある)

人物

生まれつきのカリスマ性を持ち、兄から呼びもどされて元服すると長尾家家臣だけでなく、豪族の心もつかんだとされている。

自らを毘沙門天の化身と称したり天罰と信じて戦を行う、短気であるなど、奇抜で苛烈な一面がある一方で、よく涙を流す、戦国大名らしからぬほど非常に繊細な面もあったとされる。
また、養子の上杉景勝に頻繁に手紙を送ったり呼び寄せたり(景勝は正式に養子になる以前は父・政景の居城である坂戸城にいたことが多かった)する子煩悩な一面もある。

戦略家・戦術家としてだけではなく、和歌に通じ、達筆でもあり、近衛稙家から和歌の奥義を伝授されるなど、公家との交流も深い文化人でもあった。
特に源氏物語を始めとする恋愛物を好んで読んでおり、上洛した際に開催した歌会でも見事な雅歌(恋歌)を読み、参加者全員を驚かせたと言う。
琵琶を奏でる趣味もあった。

七尾城の戦いのとき、謙信は有名な『十三夜』の詩を作ったという。

軍神毘沙門天の熱心な信者で、自らの旗印にも「毘」の文字を使った。

青年期までは曹洞宗の古刹、林泉寺 (上越市)で師の天室光育から禅を学び、上洛時には臨済宗大徳寺の宗九のもとに参禅し「宗心」という戒名を受けた。
晩年には真言宗に傾倒し、高野山金剛峯寺の清胤_(真言宗)から伝法潅頂を受け阿闍梨権大僧都の位階を受けている。

一般には「戦上手の内政下手」という印象があるが、実際には衣料の原料となる青苧を栽培し、日本海ルートで全国に広め、財源とするなど、領内の物産流通の精密な統制管理を行い莫大な利益を上げていた。
謙信が死去した時、春日山城には2万7140両の蓄えがあったという。
上杉軍の行動を支える軍費の大半は通商によって得られており、頼山陽が美談として激賞した「敵に塩を送る」という逸話も、実際には軍費調達の必要上から甲斐・信濃の商人への塩販売を禁じなかっただけと見ることも出来る。
だが越後国人たちの離反には度々悩まされているように、謙信も信玄同様、国人衆の連合盟主という地位から脱することができなかった。

合戦では情報を得ることを重視し、軒猿(担猿)という忍者集団を擁していたと言われている。

吉川元春の使者・佐々木定経が謙信と対面したとき、「音に聞こえし大峰の五鬼、葛城高天の大天狗(謙信)にや」と謙信のことを大天狗扱いするなど、「六尺近い偉丈夫」が有力説とされてきたが、「小柄」と表記されている文献もいくつか存在し、謙信の身長については諸説があり定かではないのが実情であった。
しかし、近年の研究で遺品の甲冑の大きさなどから五尺二寸ほど(約156cm)であったことがわかっている。
当時の男性の平均身長は159cm程度であったため、屈強な武将たちの中で考えると「小柄」という表現が正しいことがわかっている。

死去する1か月前の2月、謙信は京都から画家を呼び寄せて自らの肖像画と後姿を描かせた。
肖像画は現在でもよく知られている謙信像だが、後姿はなんと盃を描かせたという。
このときのことを謙信は、「この盃すなわち我が後影なり」と語ったとされる。
謙信には現存する同時代の肖像画が存在しないが、高野山無量光院にはかつて晩年期を描いた画像が所蔵されており、1893年(明治31年)の火災で焼失したという。
江戸時代には信玄はじめ他の戦国諸大名と同様に軍記物による影響を受け、軍陣武者像や法体武将像、仏画風僧侶像など多様な謙信のイメージが確立する。

誓文の血判から判定された血液型はAB型である。

性格・行動

常軌を逸した行動も取ったとされている。
永禄12年(1559年)には上洛中、堺で無礼を働いた旅宿の主を手討ちにし、それに抗議した町人たちを追い払い、さらに町に放火したという。
他にも厩橋城の城代・長尾謙忠とその郎党を「謀反の疑い有り」として討ったこともある。
これらの逸話は彼の奇矯な性格の一面を伝えているが、全てに確証があるわけではない。

永禄4年(1561年)、関東管領の就任式では忍城城主・成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけたという。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を率いて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で、武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
謙信はこの故事を知らなかったと思われるが、この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東進出の大きな足かせとなった。
この事件は、謙信の激昂しやすく短慮な一面を伝える逸話として知られる。
ただし、成田氏の地位はこのように尊大な態度を取れるほど過大ではなく、義家を馬上で迎える先例も原史料では認められず、研究者間はこれを事実とは認めていない。

自己の正当性への確信

戦場において、銃弾が頭髪をかすめようとも、自分に当たるわけがないと信じて恐れもなく戦ったり、合戦前には自分の正当性を示す願文を神仏に奉納した。

部下への配慮

天正元年(1573年)8月に越中国と加賀国の国境にある朝日山城を攻めた際に、一向一揆による鉄砲の乱射を受けて謙信は一時撤退を命じたが、吉江景資の子・与次だけは弾が飛び交う中で奮戦して撤退しようとしなかったため、謙信は与次を陣内に拘禁した。
驚いた周辺は与次を許すように申し入れたが、謙信は「ここで与次を戦死させたら、越後の父母(吉江景資夫妻)に面目が立たなくなる」とこれを拒んで、事情を吉江家に伝えている。
与次は間もなく許されて、急死した中条景資の婿養子となって中条景泰と改名した。

出家騒動

家臣団の内部抗争・国人層の離反・信玄との戦いが膠着状態に陥りつつある状況に嫌気がさした謙信は毘沙門天堂に篭ることが多くなり、次第に信仰の世界に入っていくようになった。
弘治2年(1556年)3月23日、家臣団に出家の意向を伝え、6月28日には春日山城を出奔、高野山を目指した。
しかし8月17日、大和国の葛城山山麓、葛上郡吐田郷村で家臣が追いつき必死に懇願した結果、謙信は出家を思いとどまった。
謙信の奇矯な性格をよく表している逸話とされているが、家臣団が謙信に「以後は謹んで臣従し二心を抱かず」との誓紙を差し出したことで騒動は治まっていることから、人心掌握を目的とした計画的な行動だったともいわれている。

宿敵・武田信玄

信玄の死を伝え聞いた食事中の謙信は、「吾れ好敵手を失へり、世に復たこれほどの英雄男子あらんや(『日本外史』より)」と箸を落として号泣したという。
後世の創作の可能性が高いが、「信玄亡き今こそ武田攻めの好機」と攻撃を薦める家臣の意見を「勝頼風情にそのような事をしても大人げない」と退けている。

信玄との生涯にわたる因縁からか、それが転じて二人の間には友情めいたものがあったのではないかと現在でも推測されることがあるが、実際のところ謙信は信玄をかなり嫌っていたようである。
信玄が父親を追放したり、謀略を駆使して敵を貶めたりするのは謙信に言わせるところの道徳観に反しており(もっとも、戦国という時代を考えれば、信玄の行いは別にあってもおかしくないものだが)、謙信は信玄の行いに激怒したという。
信玄との利益を度外視した数々の闘争は、謙信が純粋に信玄を嫌っていたことが原因だという説もある(もっともこれらは道徳観に反する行いが理由とも解釈できるため、謙信がいわれもなく信玄個人を「毛嫌い」していたという確証はない)。
しかし、嫌っていた武田信玄が今川氏真によって塩止めを受けたときは(武田氏の領国甲斐国と信濃国は内陸のため、塩が取れない。これを見越した氏真の行動であった)、氏真の行いを「卑怯な行為」と批判し、「私は戦いでそなたと決着をつけるつもりだ。だから、越後の塩を送ろう」といって、信玄に塩を送ったという(「敵に塩を送る」という言葉はここから派生したといわれている)。
この時、感謝の印として信玄が謙信に送ったとされる福岡一文字の在銘太刀「弘口」一振(塩留めの太刀)は重要文化財に指定され、東京国立博物館に所蔵されている。

私生活

謙信の部下は、謙信の食事を見ただけでもうすぐ戦に行くのかどうかが分かったと言う。
これは、普段はあまり食べない謙信が、戦の前になるとかなりの量を食べたためである。

生涯不犯を貫いたため、その子供は全員(上杉景勝・上杉景虎・畠山義春・山浦景国)養子だった。

永禄2年(1559年)、上洛した謙信と交流した近衛前久は「この間は度々おいで候て、華奢なる若衆を多く集め候て、大酒までにて、たびたび夜をあかし申し候、少弼(謙信)は若いのが好みとの由承り候」と謙信を観察しており、この書状と謙信が生涯にわたって女犯を一切断ったことを結びつけて、謙信は専ら男色のみを愛好したと見る歴史家もいる。
但し、男色(衆道)を愛好することは戦国武将の間では、極めて一般的な風習であった。

謙信には複数の恋物語が伝わる。
ひとつは、彼がまだ二十代の折、敵将の上野・平井城主千葉采女の娘である伊勢姫と恋に落ちたが、重臣(柿崎景家ら)の猛烈な反対によって引き裂かれ、娘が剃髪出家した後、ほどなくして自害してしまい、食事ものどを通らず病床に伏せてしまうほどに心を痛めたというもの(「松隣夜話」)。
この他にも、謙信の侍女として仕えていた直江景綱の長女や、近衛前久の妹・絶姫との間にほぼ同様の逸話があり、このような悲痛な経験が謙信を独身主義へと導く一端になったと仄めかしている。
こうした謙信の悲痛な恋物語は今日でも多くの小説やドラマなどで採り入れられているが、いずれも軍記などの不確かな史書のみで語られる伝説に過ぎず、実証はされていない。

謙信が女性と交渉した事実が確認できないことについて様々な説があるが、いずれも確かな根拠に基づいたものではない。
心理学的な観点から、信心深く立派な女性であった母青岩院と姉仙桃院(景勝の母)の影響があったと推測する見方(幼少期に高潔な人格の女性から深い愛情を注がれた男性は、成長すると他の女性にも同じ高潔さを無意識に求めるため、次第に周囲の女性に幻滅して興味を示さなくなる傾向にあり、謙信もその一人だったのではないかというもの)や、半陰陽説や上杉謙信女性説といった俗談の類から、毘沙門天あるいは飯縄権現信仰の妻帯禁制を堅く守っていたとする説などが存在する。

大の酒好きであったが、他人と酒を酌み交わすような飲み方を好まず、ひとり縁側に出て、梅干だけを肴に手酌で飲んでいたと言われる。

死因について、過度の飲酒とつまみの梅干による塩分の取りすぎによる高血圧が原因の脳血管障害と言われている(雪の中、厠で倒れたと史料にあることも、死因が脳溢血だと考えられる一因である)。
他に、厠で用を足していた時に信長の派遣で雪隠隠れをしていた刺客に槍で刺されて殺害されたという説、婦人病(詳細は上杉謙信女性説に記載)で亡くなったとという奇説や、酒の飲みすぎからくる胃癌、食道癌説、織田信長にヒ素で毒殺されたなどの説もある。

40歳(1569年)の時、脳血管障害(と思われる)を発症、左下肢を動かしにくくなった、と言われる。

戦国大名として

謙信は織田信長と対抗できる最後の一人だったため、当時からその死は相当な衝撃を与えたようである。
謙信の葬儀は3月15日に執り行なわれたが、このときのことを『北越軍談』はこう記している。

「家門・宿老・侍隊将・奉行・頭人・近習・外様、出棺の前後を打囲て行列の姿堂々たれ共、獅竜の部伍に事替り、衆皆哭慟の声を呑み、喪服の袂を絞りければ、街に蹲る男女老若共に泪止め兼ねたり。」
「彼五丈原の営中、赤星(諸葛亮)落て蜀軍傾覆するが如く、春日山の郭内は云にや及ぶ、城下に来り集る将士、宛然航路に楫を失ひ、巨海の波に漂ふに斉し」

戦では無類の強さを発揮した謙信が天下を取れなかった理由は越中国の一向一揆に手間取ったこともあげられる(謙信は仏を信仰していたが、信仰していたのは真言宗)。
同じく北陸の大名であった朝倉氏も加賀の一向宗に悩まされ地盤を越えた戦略を取ることが出来なかった。

評価

軍事能力に卓越しており、「越後の龍」や「軍神」などと後世で評されている。
一般には謙信は天才型で、迅速な用兵と駆け引きの的確さから生涯殆どの戦で勝利をおさめたという見方が強い。
天正4年に甲斐の僧・教賀が長福寺の空陀に送った書状によれば、宿敵たる武田信玄も常々謙信をして「日本無双之名大将」と評していたそうである。

謙信と他大名との鉄砲、弓、馬などの軍事編成の比はさほど差異はなく、戦術的にも大きな違いはないが、上杉軍は敵と敵のぶつかりあい、直接戦闘では圧倒的な強さを誇っていた。

軍事面で評されることが多いが、内政面に関しても大きな失政はなく、綿密に計画された金山運営で大きな利益をあげることに成功しており、また日本海側の海上交易の要衝としての利益も大きかった。
これらのことから一概に「戦上手の内政下手」とは言えない(補足として、謙信の年貢の収納高は推定99万7000石、武田信玄は推定83万5000石で最盛期は100万石超。経済力では両者ほぼ互角である)。
豊富な資金力を生かして民政面でも成果を上げており、太田資正は、「謙信の代になって越後の民衆の生活水準が劇的に向上しており、民を慈しむ優秀な領主である」と高い評価を下している。

野戦での電光石火で神がかり的な采配に比べ、攻城戦には失敗し撤退することもしばしばあった(小田原城、臼井城、唐沢山城等)。
小田原城といえば、巨大な総構えを持つ城塞都市というイメージが強いが、当時は総構えどころか、三の丸も存在しない程度の規模であった。
小田原包囲と同時に行っていた玉縄城などの支城攻略も失敗に終わっており、その後の北条の逆襲を招く結果となった。
武田・北条両大名家と繰り広げた長期に渡る大規模な持久戦で露呈した脆さは致命的であり、直接の対陣での敗北は殆ど無いにも関わらず、関東においては最終的に上野の一部以外は殆ど失ってしまった。

持久戦の弱さは、豪雪地帯から遠く補給線の貧弱な敵地に向けて長期的な軍事行動を取ることが不可能であり、それゆえに短期的な活動で多大な成果を得なくてはならなかったことが原因であると見られる。
また、直接の軍事行動で敗北は殆どなかったものの、占領地を直接支配しなかったがために謙信が帰国するたび関東衆の離反を許すこととなり、北条・武田に対しての長期戦略は上野の一部を得るにとどまってしまった。
結果として武田の北進を阻み、北条の躍進を停滞させるなど、国防に成功したものの、侵略の成果は乏しいものとなった。
特に臼井城の攻防では原胤貞2千の軍勢に上杉1万5千と7倍以上であったにもかかわらず、胤貞より指揮を受け継いだ軍師・白井入道浄三に大敗している。
ただしこの合戦は一次資料による裏づけが存在しないため、議論の余地を残している。

第四次川中島の合戦の直前、10万を超える東国の大連合軍を率いて一気に小田原城などに攻め込み北条氏を滅亡寸前まで追い詰めたが、隙をついて武田信玄が信濃にて軍事行動を起こした。
だが、信玄は上杉氏諸将の不安をあおるために行動を起こしただけで本気で戦をする気はなかった(事実、上杉軍が動きを止めた後すぐに撤退している)。
謙信は信玄の意図を見抜いていて作戦続行を主張したが、関東諸将の反対で撤退するしかなかった。
一説によれば、武田信玄はこのことをさして「もしあの時、時間を置かず一気に小田原城を攻めていたら防御の十分でなかった城は陥落し、さしもの北条氏康も滅ぼされていたであろう。そうすれば甲斐の国も危なかった」と述べたと伝わる。
また、足利氏を守るために三好氏・松永氏討伐を画策していた。
上洛が出来さえすれば成功の可能性は高く(若狭・越中間は航路があり上杉氏には水軍もあったため加賀一向一揆は無視できた。また、幕臣である越前の朝倉氏・若狭の一色氏の協力は得られた可能性が高い)、謙信を警戒した三好・松永から大量の貢物を送られている。
しかし、このときも家臣の反対で実行に移せなかった。
いずれも謙信の電光石火・神出鬼没ぶりや戦術眼の高さがうかがえる逸話だが、家臣団の反対で中止せざるをえなくなっている所に謙信の限界があるとの意見もある。

有名無実な関東管領職にこだわり続けた面から、形式に拘る形式主義者、実質よりも権威を重んじる権威主義者、室町幕府体制の復興を願う復古主義者と評する声がある。
しかし、謙信の時代の関東や越後では畿内と違い関東管領職の権威はある程度通用したとの評もある。
また、権威や管領職への敬意は、謙信の義理堅さをあらわしているとも言える。

一方で、大義名分を盾にし自己正当化をすることに拘り(合戦する際の理由で自身を正当化するのは秀吉や家康もしており当然ではあるが)、自身を毘沙門天の転生と信じるなど、天才特有の自己愛の強さの証左である、との評価も一部にある。
また、名門への羨望があったからこそ、山内上杉家を継いだとも言える。
ただし、元来越後上杉家が守護を勤め、越後上杉被官家臣が数多くいた越後を統一するには、上杉家宗家である山内上杉家の家督は必要不可欠であったとする指摘もある。

関東管領職という室町幕府の役職を全うし、多くの利益を期待できない関東出陣を行う。
また、数々の戦いの多くが、村上義清、小笠原長時、上杉憲政らの旧領復権のための戦いであった。

生前に前もって後継者を決定しなかったとされ、謙信の死後、御館の乱勃発の引き金となった。
これは上杉家にとって大きな痛手となり、景勝の代での衰退と没落の道を辿る元凶となった。
謙信時代に獲得した北国(加賀・能登・越中)の大部分は、後に柴田勝家によって奪われる。

謙信の義理堅さ、約束事に対する姿勢は大変有名で、北条氏康は彼について「信玄と信長は表裏常なく、頼むに足りぬ人物だ。謙信だけは請け合ったら骨になっても義理を通す人物だ。それ故、肌着を分けて若い大将の守り袋にさせたい」と発言している。
ちなみに謙信の関東出陣回数は17回であり、どれもことごとく徒労に終わるものだったが、これも謙信の義理堅さを証明している。

また、武田信玄は死に臨んで跡継ぎの武田勝頼に「謙信は義理がたい武将なので、人に頼られれば決して見捨てる事はない。自分の死後は謙信を頼れ」と遺言したと甲陽軍鑑にある。
当時は仇敵の武田側からすらも謙信は頼まれれば断れない性格だと評されていたことがわかる。

藤木久志は著書である『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社・1995年刊)で「上杉謙信は越後の民衆にとっては他国に戦争と言うベンチャービジネスを企画実行した救い主であるが、襲われた関東など戦場の村々は略奪を受け地獄を見た」と、通常言われる義人・上杉謙信像とは別の上杉軍の姿こそが実態であったとし、このセンセーショナルな「出稼ぎ」説は多くの識者から支持を得て広く世間に浸透した。
しかし、市村高男は『東国の戦国合戦』(吉川弘文館・2009年刊)で「合戦の主体となる正規の軍隊はどのようにして軍資金等を確保することができたのか」、「敵地には略奪するほどの諸物資が存在したのであろうか」、「社会状況の具体的な提示があるものの、戦闘に至る直接の契機についてはもとより、それらの社会状況と合戦を開始する権力側のいきさつがどのように関連していたのか」など、数々の疑問を呈しており、今後の議論が待たれている。

墓所・霊廟

謙信の遺骸は甲冑を着せて甕に納め、葬られたという。

遺骸は当初春日山城下の林泉寺 (上越市)に埋葬されたが、長尾上杉家の転封に伴って、会津若松城、ついで米沢城内に改葬されたとされる。
明治維新後は米沢藩の歴代藩主が眠る上杉家廟所(山形県米沢市)に再度、改葬された。
春日山林泉寺 (上越市)(新潟県上越市)と高野山と栃尾市美術館の前庭(新潟県栃尾市)にも墓が残されている。

江戸時代の米沢藩では謙信は藩祖として崇敬を集めた。
明治5年(1872年)に米沢城本丸跡に創建された上杉神社(別格官幣社)に上杉鷹山と共に祀られ、明治35年に別格官幣社に昇格し、神体は謙信一柱となった。
明治41年(1908年)9月9日、従二位が贈られた。
(なお上杉鷹山は、松岬神社にて上杉景勝、直江兼続らと共に祀られるようになった。)

[English Translation]