上杉道満丸 (UESUGI Domanmaru)
上杉 道満丸(うえすぎ どうまんまる、元亀2年(1571年) - 天正7年3月18日 (旧暦)(1579年4月13日)は、越後国主・上杉謙信の養子、上杉景虎の嫡男。
母は上杉謙信の姪清円院。
兄弟に、男子が一人・女子が二人居る。
血縁関係
父・上杉景虎は、関東に版図を広げた北条氏康の七男と一般的にいわれている(異説有り)。
母は、越後国上田城城主・長尾政景の娘である清円院。
よって、同じく政景の息子で御館の乱で景虎と対立した後の米沢藩初代藩主・上杉景勝は叔父であり、清円院、景勝の母で政景の妻・仙桃院は祖母に当たる。
上杉家側の義理の一族は、景虎の養父で「越後の龍」と云われた上杉謙信、景虎や景勝と同様に謙信の養子である畠山義春、山浦景国が挙げられる。
景虎の実家である北条家の一族は、祖父と伝わる北条氏康、叔父に北条氏政、北条氏邦、北条氏照らがいる。
概略
道満丸は、既に述べているように上杉景虎の嫡男で、景虎がいた越後国で生まれた。
しかし、彼がまだ子供で育ち盛りの時に、義祖父・上杉謙信が死去してしまい景虎と景勝の間で家督争い・御館の乱が発生してしまう。
景虎方の勢力が不利になってくると、義理の曾祖父・上杉憲政に連れられて景勝方の陣所に赴き和睦交渉に当たろうとするが、景勝の兵により、憲政と共に殺害された。
一説に場所は四ツ屋砦付近ともいわれる。
享年9(故意による謀殺説と混乱による偶発説がある)。
異説
四ツ屋砦で殺害されず、北信の豪族・市河信房に保護されたという説もある。
その説によると、信濃国高井郡の常慶院で成長し、後に市河氏の娘を妻に迎えて市河伝七郎照虎と称し、明暦元年(1655年)に没したという。