上総広常 (KAZUSA Hirotsune)
上総 広常(かずさ ひろつね)は平安時代末期の武将。
上総権介平常澄の八男(嫡男)。
本姓は平氏で、正式な名乗りは平 広常(たいら の ひろつね)。
上総介広常(かずさのすけひろつね)の呼称が広く用いられる。
房総平氏惣領家頭首であり、東国最大の勢力であった広常の加担が源頼朝挙兵の成功を決定付けたとも言われる。
生涯
上総氏は上総介あるいは上総権官(かずさごんのすけ)として上総国、下総国二ヶ国に所領を持ち、大きな勢力を有していた。
上総は親王任国であるため、介が実質的な国府の長である。
広常は、鎌倉を本拠とする源義朝の郎党であった。
保元元年(1156年)の保元の乱では義朝に属し、平治元年(1159年)の平治の乱では義朝の長男・源義平に従い活躍。
義平十七騎の一騎に数えられた。
平治の乱の敗戦後、伊勢平氏の探索をくぐって戦線離脱し、領国に戻る。
義朝が敗れた後は平家に従ったが、父常澄が亡くなると、嫡男である広常と庶兄の常景や常茂の間で上総氏の家督を巡る内紛が起こった。
この兄弟間の抗争は後の頼朝挙兵の頃まで続いている。
治承3年(1179年)11月、平家の有力家人藤原忠清が上総介に任ずると、広常は国務を巡って忠清と対立し、平清盛に勘当された。
また平家姻戚の藤原親政が下総に勢力を伸ばそうとするなど、こうした政治的状況が広常に平家打倒を決起させたと考えられる。
治承4年(1180年)8月に打倒平氏の兵を挙げ、9月の石橋山の戦いに敗れた源頼朝が、安房国で再挙を図ると、広常は上総国内の平家方を掃討し、2万騎の大軍を率いて頼朝のもとへ参陣した。
『吾妻鏡』では、『将門記』の古事をひきながら、場合によっては頼朝を討ってやろうと「内に二図の存念」を持っていたが、頼朝の毅然とした態度に「害心を変じ、和順を奉る」とはある。
尚、『吾妻鏡』には2万騎とあるが『延慶本平家物語』では1万騎、『源平闘諍録』では1千騎である。
同年11月の富士川の戦いの勝利の後、上洛しようとする頼朝に対して、広常は常陸国の常陸源氏の佐竹氏討伐を主張した。
広常はその佐竹氏とも姻戚関係があり、佐竹義政と佐竹秀義に会見を申し入れたが、佐竹秀義は「すぐには参上できない」と言って金砂城に引きこもる。
佐竹義政はやってきたが、互いに家人を退けて2人だけで話そうと橋の上に義政を呼び、そこで広常は義政を殺す。
その後、頼朝軍は金砂城の佐竹秀義を攻め、秀義を敗走させる(金砂城の戦い)。
『吾妻鏡』治承5年(1181年)6月19日 (旧暦)条では、頼朝配下の中で、飛び抜けて大きな兵力を有する広常は無礼な振る舞いが多く、頼朝に対して「公私共に三代の間、いまだその礼を為さず」と書かれている。
また、下馬の礼をとらず、また他の御家人に対しても横暴な態度で、頼朝から与えられた水干のことで岡崎義実と殴り合いの喧嘩に及びそうにもなったこともあると書かれる。
ただし、『吾妻鏡』は鎌倉時代後期の編纂であり、どこまで正確なものかは不明である。
そして寿永2年(1183年)12月、頼朝は広常が謀反を企てたとして、梶原景時に命じて、双六に興じていた最中に広常を謀殺させた。
嫡男上総能常は自害し、上総氏は所領を没収された。
この後、広常の鎧から願文が見つかったが、そこには謀反を思わせる文章はなかった。
頼朝の武運を祈る文書であったので、頼朝は広常を殺したことを後悔し、即座に千葉常胤預かりとなっていた一族を赦免した。
しかしその広大な所領は千葉氏や三浦氏などに分配された後だったので、返還されることは無かったという。
その赦免は当初より予定されていたことだろうというのが現在では大方の見方である。
慈円の『愚管抄』(巻六)によると、頼朝が初めて京に上洛した建久元年(1190年)、後白河天皇との対面で語った話として、広常は「なぜ朝廷のことにばかり見苦しく気を遣うのか、我々がこうして東国で活動しているのを、一体誰が命令などできるものですか」と言うのが常であった。
そして、平氏政権を打倒することよりも、関東の自立を望んでいた為、殺させたと述べた事を記している。
広常の館跡
上総広常の館跡の正確な位置は今もって不明だが、近年、千葉県夷隅郡大原町 (千葉県)(現いすみ市)や御宿町一帯で中世城館址の調査が行なわれ、検討が進められた。
調査に基づいた検討成果は以下の論文を参照。
加藤晋平 1993年 「上総介広常の居館址はどこか」 潮見浩先生退官記念事業会編『考古論集-潮見浩先生退官記念論文集-』広島大学文学部考古学研究室に所収。