世阿弥 (Zeami)

世阿弥(ぜあみ、せあみ(改称前)世阿彌陀佛、正平 (日本)18年/貞治2年(1363年)? - 嘉吉3年8月8日 (旧暦)(1443年9月1日)?)は日本の室町時代初期の猿楽師。

父の観阿弥(觀阿彌陀佛)とともに猿楽(申楽とも。現在の能)を大成し、多くの書を残す。
観阿弥、世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれている。

幼名は鬼夜叉、そして二条良基から藤若の名を賜る。
通称は三郎。
実名は元清。
父の死後、観世大夫を継ぐ。
40代以降に時宗の法名(時宗の男の法名(戒名)は阿弥陀如来(阿彌陀佛)号であり、ちなみに世は観世に由来)である世阿弥陀仏が略されて世阿弥と称されるようになった。
世の字の発音が濁るのは、足利義満の指示によるもの。

生涯

世阿弥が生まれたとき父である観阿弥は31歳で、大和猿楽の有力な役者であった。
世阿弥の母については、近年発見された文書により「播磨国揖保庄の永富左衛門六郎の娘」という説もあるが不詳。
観阿弥がひきいる一座は興福寺の庇護を受けていたが京都へ進出し、醍醐寺の7日間興行などで名をとどろかせた。
世阿弥は幼少のころから父の一座に出演していた。

1374年または1375年、観阿弥が今熊野で催した猿楽(申楽)能に12歳の世阿弥が出演したとき、室町将軍足利義満の目にとまった。
以後、義満は観阿弥・世阿弥親子を庇護するようになった。
1378年の祇園会では将軍義満の桟敷に世阿弥が近侍し、公家の批判をあびている(「後愚昧記」)。
1384年に観阿弥が没して世阿弥は観世太夫を継ぐ。

当時の貴族・武家社会には、幽玄を尊ぶ気風があった。
世阿弥は観客である彼らの好みに合わせ、言葉、所作、歌舞、物語に幽玄美を漂わせる能の形式「夢幻能」を大成させていったと考えられる。
一般に猿楽者の教養は低いものだったが、世阿弥は将軍や貴族の保護を受け、教養を身に付けていた。
特に摂政二条良基には連歌を習い、これは後々世阿弥の書く能や能芸論に影響を及ぼしている。

義満の死後、将軍が足利義持の代になっても、世阿弥はさらに猿楽を深化させていった。
『風姿花伝』(1400年ごろ成立か)『至花道』が著されたのもこのころである。
義持は猿楽よりも田楽好みであったため、義満のころほどは恩恵を受けられなくなる。

義持が没し足利義教の代になると弾圧が加えられるようになる。
1422年、観世大夫の座を長男の観世元雅に譲り、自身は出家した。
しかし将軍足利義教は、元雅の従兄弟にあたる観世三郎元重(音阿弥)を重用。
仙洞御所への出入り禁止(1429年)、醍醐清滝宮の楽頭職罷免(1430年)など、世阿弥・元雅親子は地位と興行地盤を着実に奪われていった。

1432年、長男の観世元雅は伊勢安濃津にて客死してしまう。
世阿弥自身も1434年に佐渡国に流された。
1436年(永享8年)には『金島書』を著すが、その後の消息はよく分かっていない。
晩年には大和国の禅寺・補巌寺に帰依していており、彼と妻の名を記した納帳が発見されている(香西精『世阿弥新考』)。
後に帰洛したとも伝えられる。
「観世小次郎画像賛」によれば嘉吉三年(1443年)に没したことになっている。

業績
世阿弥の作品とされるものには『高砂』『井筒』『実盛』など50曲近くがあり、現在も能舞台で上演されている。
また、『風姿花伝』などの芸論も史料価値だけではなく、文学的価値も高いとされている。

芸道論
著書『風姿花伝』(『風姿華傳』、『花伝書』)では、観客に感動を与える力を「花」として表現している。
少年は美しい声と姿をもつが、それは「時分の花」に過ぎない。
能の奥義である「まことの花」は心の工夫公案から生まれると説く。

「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」として『風姿花伝』の内容は長らく秘伝とされてきた。

代表作

世阿弥は数多くの謡曲を残している。
謡曲とは、能における節と詞(ことば)、または能の脚本(謡本)そのものを指す。

弓八幡
高砂 (能)
老松

実盛
頼政(平家物語)
忠度(平家物語)
清経(平家物語)
敦盛(平家物語)
八島 (能)(平家物語)

井筒 (能)(伊勢物語)
恋重荷
錦木
砧 (能)
葵上(あおいのうえ:源氏物語)

当麻
野守(万葉集の歌が典拠)
鍾馗
鵺(ぬえ:平家物語)
桜川
花筐(はながたみ)
葦刈(あしかり)
春栄
西行桜(さいぎょうざくら)

著作

世阿弥は父の遺訓、また自ら会得した芸術論を、「道のため、家のため」(『風姿花伝』)多数書き遺した。

その伝書は秘伝とされ、世阿弥の血筋を承けた越智観世家、そして観世宗家、また女婿禅竹を通じて金春家などが多く所蔵した。
室町後期に越智観世家が絶え、観世宗家から入った養子が再興した。
越智観世が最も多く有していたといわれる伝書はあらかた観世宗家に渡った。
またそれとは別に、越智観世から複数の伝書が能を愛好した徳川家康に献上され、家康を通じて細川幽斎や織田信忠がこれを手に入れている。

近世にも能楽関係者や一部大名家を除いて出回ることは殆どなかった。
数少ない例外として、14代大夫の観世清親とともに世阿弥伝書の収集に尽力した15代大夫の観世元章が、1772年に『習道書』に注釈を加えて出版し、座衆の一部に配布したこと、元章の後援者であった田安宗武が観世大夫が所蔵する本の一部を書写したこと、そして1818年に柳亭種彦が家康の蔵書であった『申楽談儀』を手に入れ、周囲の文人数名が写本を作ったことが挙げられる。
しかしながら、これ以外に目立った形で世阿弥の著作が表に出ることはなかった。

20世紀に入り、吉田東伍が『世阿弥十六部集』を出版し、当時知られていた世阿弥の伝書を一挙刊行した。
以後研究が進み、現在では世阿弥の伝書として二十一種が認められている。

[English Translation]