中原尚雄 (NAKAHARA Naoo)
中原 尚雄(なかはら なおお、弘化2年(1845年) - 大正3年(1914年)1月15日)は、元薩摩藩伊集院町郷士、後に警察官となる。
西南戦争の直接的なきっかけを作った人物として何より有名である。
略歴
明治維新後の明治4年(1871年)10月、東京府取締りのための邏卒に徴募する。
警視庁に奉職、邏卒のち少警部となる。
明治9年(1876年)1月11日、同郷の川路利良警視庁大警視の許可を受けて鹿児島県出身の警視庁同僚ら24名と共に久しぶりの帰郷を果たす。
しかし「帰郷」は表向きの名目であった。
事実は以前から明治政府が警戒していた私学校徒及び西郷隆盛ら私学校幹部の偵察、ならびに旧郷士族の私学校からの離間工作活動のために潜入したとされる。
帰郷した尚雄は旧知の谷口登太に「自分は刺し違えてでも西郷(隆盛)を止める」といったと言われる。
これが「明治政府による西郷暗殺の陰謀」の証拠とされ、同年2月3日、他の帰郷中の同僚らと共に私学校生徒に捕らえられた。
厳しい尋問の末に明治政府が西郷を暗殺しようとした陰謀があったことを自白した。
その結果、私学校徒の暴走に歯止めが利かなくなり、西南戦争に突入していくのである。
激しい拷問を受けた尚雄だったが、3月10日海路にて鹿児島に入った勅使柳原前光の一行に救出された。
官船神奈川丸に乗り込み東京に移送される。
後に高知県警部長、山梨県警部長、福岡県警部長を務める。
47歳の時に福岡県警部長を辞職して郷里に帰る。
大正3年(1914年)1月15日午前4時逝去。
享年70(墓碑)