中原猶介 (NAKAHARA Naosuke (猶介))
中原 猶介(なかはら なおすけ、天保3年4月8日 (旧暦)(1832年5月8日) - 慶応4年8月7日 (旧暦)(1868年9月22日))は、薩摩国(鹿児島県)出身の蘭学者・科学者・軍人。
来歴・人物
名は尚勇、号は鉄心斎。
文献によっては「猶介」に「ゆうすけ」とルビを振っているものもあるが、他に「尚介」の表記も散見されるため、「なおすけ」の読みが正しいとみられる。
天保3年(1832年)4月8日、現在の鹿児島市上之園町(の一部、地番整理前は上荒田に属した)生まれ。
幼少より蘭学や舎密学(せいみがく)に熱中した。
18歳にして藩命により長崎へ出向く機会を得、オランダ人から蘭学を習得した。
22歳で島津斉彬に見出され、尚古集成館事業や薩摩藩水軍増兵、軍艦建造、反射炉建設の職にあたり、近代海軍の礎を築いた。
また、薩英戦争に備えて日本初の機械水雷を開発したり、斉彬の命により薩摩切子の着色を研究し、紅色薩摩切子の製作に成功するなど、鹿児島県や日本の近代技術の面で大きな功績を残した。
斉彬の死後は江戸に留学、江川英龍や安井息軒の門下で学問を取得し、のち塾頭に就任、後進育成に当たった。
息軒門下の頃、偶然に薩摩藩の蒸気軍艦が品川へ入港、息軒は猶介の案内にて艦内を一巡した。
猶介は、その軍艦は自分が建造に携わったことを、師である息軒に一言も語らなかったのであるが、息軒は後日その事実を知り、太息して猶介の人となりに膝を打ったという。
薩英戦争では長崎にて病気療養中だったが、禁門の変においては軍賦役・大砲隊長に任ぜられ、慶応2年(1866年)の長州征討の際は、長崎にて長州藩の軍備品購入の斡旋をした。
慶応3年(1867年)、イギリス公使の薩摩藩訪問時には接待役を努め、実弾演習を指揮し披露した。
慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いでは、3月に新政府側の海軍参謀に任命されたが病のため一時帰郷。
6月に再出征、7月の越後長岡城の戦いに加わった。
しかし河井継之助と対陣するうち、敵弾を右足に受け、それが因となって柏崎病院で37年の生涯を閉じた。
最期を迎えるに際しては、蘭学や科学に熱中し信仰していたにもかかわらず、天命と知るや、一切の医学的治療や投薬を退けたという。
鹿児島県立甲南高等学校南門に「中原猶介翁宅址碑」がある。
大正5年(1916年)、鹿児島市内有志によって建立され、碑文は島津長丸男爵によるものである。
中原は翌大正6年には正五位を贈られた。
当初は現在の甲南高正門付近にあったが、1930年の甲南高の前身・鹿児島二中時代、校舎鉄筋改築の際に移築したもの。
辞世の句
よしや身は 越路の雪に うづむとも とくる清水に 名をや流さむ
「たとひ身は 越路の雪に 埋むとも 清き流れに 名をや流さん」とする文献もある。