中天游 (NAKA Tenyu)
中 天游(なか てんゆう、男性、天明3年(1783年) - 天保6年3月26日 (旧暦)(1835年4月23日))は日本の蘭方医、蘭学者。
名は環(たまき)、耕助(こうすけ)、融(とおる)。
字は環中(かんちゅう)。
号 (称号)は天游(てんゆう)、思思斎、思々斎(ししさい)
生涯
天游は丹後国に生まれる。
父は儒医上田河陽、のちに母方の親戚、中家の跡継ぎとして養子に出される。
22歳の時に江戸に出て大槻玄沢の私塾・芝蘭堂に入門、のちに京都府に移り住んだ芝蘭堂四天王の一人、稲村三伯を追って師事し蘭学や蘭方医学を学んだ。
師の三伯が病に伏すと天游はその才を買われ三伯の娘さだと結婚。
三伯の死後は、大阪府に移り妻と医所を開いて町医者となった。
しかし天游は医学より究理学(科学・自然哲学)などのほうを好んだ。
医所は妻に任せきりで蘭学に熱中していた。
その後、大坂に芝蘭堂四天王橋本宗吉が開いた私塾・絲漢堂の噂を聞くとその門を叩いた。
蘭学は蛮学(野蛮な学問)と蔑まれた時代、蘭学者への風当たりは酷い。
大坂切支丹一件、シーボルト事件を契機に弾圧が厳しくなり、師の宗吉も塾を閉鎖して一時隠棲するが、天游は大坂蘭学の灯を消さぬため公儀と対峙し続けた。
天保3年(1832年)、天保の大飢饉が発生するとその対策に尽力したが、その最中の天保6年(1835年)3月26日死去。
享年53。
功績
橋本宗吉は大坂の地に蘭学を根付かせようと奔走し大坂蘭学の祖と言われたが、天游もまた宗吉と共に大坂蘭学を盛り立てた人物の一人として後世に名を残した。
さらに、自らも絲漢堂で学ぶかたわら35歳で私塾・思々斎塾を開き、緒方洪庵、億川百記らを輩出。
天游の死後、その遺志を継いだ洪庵の代には江戸蘭学を越え日本一の蘭学の地として大坂蘭学は栄えることになった。
また、著作の分野でもイギリスのジョン・ケイルの天文学の著書を志筑忠雄が訳した究理学書「暦象新書」に自身の考えを加筆した書引律を執筆した。
和算にも通じ医学に偏りがちだった日本の西洋学問に新たな分野を開拓し多くの著作を残した。