中平康 (NAKAHIRA Ko)

中平 康(なかひら こう、大正15年(1926年)1月3日 - 昭和53年(1978年)9月11日)は、映画監督。
父は洋画家の高橋虎之助。
娘は作家の中平まみ。
増村保造、岡本喜八、市川崑、沢島忠、鈴木清順らと共にモダン派と称された。
映画テクニックを駆使したスピーディーなテンポと洗練されたタッチの技巧派監督として知られる。
映画をあくまでも純粋視覚芸術のように捉え、題材として何を描くかではなく、どのように描くかという映画の本質たる「スタイル」と「テクニック」で見せる演出を信条とした。
代表作に『狂った果実』、『月曜日のユカ』、『街燈』、『紅の翼』、『殺したのは誰だ』などがある。

来歴・人物

デビュー前

- 大正15年(1926年)~
大正15年(1926年)1月3日、東京市滝野川区に生まれる。
父は洋画家の高橋虎之助。
一人娘だった母方の中平姓を継ぐ。
音楽学校を出た祖母もヴァイオリンを教えていたなどして芸術家になることを奨励されるような家庭で育つ。

中学時代より映画に熱中し、好きだったルネ・クレール監督作品など同じ作品を10回くらいずつ繰り返し観るなどして研究を重ねる。
高等学校を出て浪人中に、雑誌「人間喜劇」の諷刺シナリオの公募に出品して佳作5本の中に入選(題名は「ミスター・ゴエモン」)。
昭和23年(1948年)、東京大学文学部美術科入学。
所属した映画研究会には荻昌弘、渡辺祐介、若林栄二郎がいた。

助監督時代

- 昭和23年(1948年)~
昭和23年(1948年)、東京大学を中退し、川島雄三監督に憧れ松竹大船撮影所の戦後第1回助監督募集に応募した。
1500人中8人(鈴木清順、松山善三、斉藤武市、井上和男、生駒千里、今井雄五郎、有本正)の内に撰ばれ、松竹入社。
憧れであった川島をはじめ、佐々木康、木下惠介、大庭秀雄、原研吉、渋谷実、黒澤明等の助監督を務める。
ベレー帽にポケットだらけのツナギ服をスタイリッシュに着用し、体中に七つ道具をつめ込み撮影所を走りまわった。
彼の姿は周囲の注目を集め、ベレー帽は彼の生涯のトレードマークとなった。

大変有能な助監督として知られ、特に自ら志願して就いた黒澤明と川島雄三には可愛がられた。
多くの助監督が後輩を指導する際、脚本を勉強することを第一とするのが通常であったのに対し、その他に中平は編集の技術も身に付けることを強く主張するなど、助監督時代から既に後の映画テクニックへの執着を見せる。
彼がチーフ助監督として川島雄三監督の『真実一路』の予告編を演出した際、その予告編を見た新米助監督だった篠田正浩と高橋治は中平の突出した才能に愕然としたという。

一日も早く監督に昇進したいと強く希望していた中平は、西河克己からの誘いもあり、昭和29年(1954年)、映画製作を再開した日活に移籍。
日活では新藤兼人、田坂具隆、西河克己、滝沢英輔、山村聡らの助監督を務める。

監督昇進後・初期作品

- 昭和31年(1956年)~
昭和31年(1956年)、プロデューサーの水の江滝子に才能を見出され、助監督身分のまま、殺人事件の舞台となる銀座裏通りを丸ごとオープンセットで作り、随所にパンフォーカスを駆使した『狙われた男』を監督(公開は『狂った果実』の後)、新人監督らしからぬ中編スリラーとなる。

妥協を許さぬ「うるさ型」の監督として知られる。
同年の『太陽の季節』(古川卓己監督)のヒットを受け、わずか17日間で撮影された二作目の『狂った果実』がスピーディーなテンポ、斬新なカッティング、センセーショナルな題材とで、フランソワ・トリュフォーらヌーヴェルヴァーグの作家たちに絶賛された。
素人同然だった石原裕次郎をスターダムに押し上げる。

ルネ・クレール、ビリー・ワイルダーに心酔。
才能のポテンシャルとしては同世代のモダン派として並び称された岡本喜八、増村保造らをも上回るといわれた。
日本では珍しいスラップスティックとパロディで傑作といわれる『牛乳屋フランキー』、映画監督として「自分はあくまでもソフィスケイトを目指す」と語っていたように「最も中平康らしい作品」といわれる、森英恵による衣装も絢爛たるルネ・クレール風の『街燈』、若き前衛芸術家達の青春群像を描いたコメディ『誘惑』、ビリー・ワイルダータッチを狙った風俗喜劇『才女気質』等のスピーディーで軽妙洒脱な作品に力量を発揮した。
他、ハヤカワ・ポケット・ミステリを愛した中平らしい『殺したのは誰だ』、『紅の翼』、『その壁を砕け』、『密会』等のサスペンスやミステリーと、あらゆるジャンルに抜群の冴えを見せた。

昭和35年(1960年)の『学生野郎と娘たち』では、主人公を一人に限定せず多くの登場人物を等価に描くという中平流群像劇の方法論を結実させた快作となる。
しかし「反・荘重深刻派」、「日本軽佻浮薄派」を自任し、テーマ性や社会性がある題材よりも洗練を好み映画テクニックで臨んだ。
彼の作風は日本映画界にあっては異端であり、自身の思惑とは裏腹に、当時は理解されなかった。

エッセイや映画評論にも辣腕なところを見せ、映画賞でテーマ性や社会性のある作品ばかりが安易にベストテン入りする状況を厳しく批判し、映画を原作や素材によって評価するのではなく、その素材をどのように映像化したかをこそ評価すべきだと繰り返し訴えた。
その歯に衣着せぬ物言いに映画評論家を敵に廻すことも少なくなかった。

スターシステム定着後

- 昭和35年(1960年)~
後に日活のスター・システムが確立し定着すると共にプログラムピクチャーを量産。
スター中心の映画製作であっても、あくまでも「まず映画ありき」の姿勢で臨み、吉永小百合は後に「一番恐い監督でした」と語るなど、その演出姿勢は変わらず厳しいものであったとされる。

昭和35年(1960年)、『学生野郎と娘たち』の次に撮った『地図のない町』は橋本忍に納得の行くまで脚本の書き直しを依頼し石原裕次郎主演作として自ら企画した。
だが、裕次郎のスターイメージを損なうとして会社側に却下されて、結局、葉山良二主演で映画化されたが力の入った異色の社会派ミステリーとなる。
同年、石原裕次郎の『あした晴れるか』では清純派・芦川いづみに黒ぶち眼鏡を掛けさせ、早口で喋りまくり裕次郎に迫るという珍妙な才女を演じさせ和製スクリューボール・コメディとなった。

昭和36年(1961年)には中平最大のヒット作となった石原裕次郎の『あいつと私』、昭和37年(1962年)には後のテレビアニメ『ルパン三世』を彷彿とさせる早過ぎた宍戸錠のアクション・コメディ『危いことなら銭になる』。
昭和38年(1963年)、後に大韓民国でリメイクされるなど吉永小百合、浜田光夫の純愛路線を代表した歴史的傑作となる『泥だらけの純情』。
同年のシニカルでモダンで中平らしい『現代っ子』、それに吉永、高峰三枝子、田中絹代、森雅之らが競演する『光る海』は中平流群像劇の総仕上げ的な作品となる。

昭和39年(1964年)には近年特に有名となったフォトジェニックな加賀まりこの『月曜日のユカ』、性愛にのめり込んで行く中年男性を仲谷昇主演で描く戸川昌子原作『猟人日記』、映画化不可能とまでいわれた吉行淳之介原作『砂の上の植物郡』、同じ仲谷・稲野和子コンビの『おんなの渦と渕と流れ』と立て続けに撮った実験的異色作にも並々ならぬ才気を見せる。
しかし、彼の作品は常に時代を先取りした感があり、群を抜いた演出力を持ちながら映画賞にはまるで縁がなかった。
「ヒッチコックだって賞なんかもらってやしない」と周囲に洩らすこともあったという。

岡本・増村、同じ日活の今村昌平や浦山桐郎が名声を高めていく中で取り残された焦りからか生活を荒れさせ、撮影現場で飲酒することすらあったと伝えられる。

昭和40年(1965年)、小林旭の賭博師シリーズでは中平の初登板した第6作『黒い賭博師』にて、従来の哀愁や情念の要素を抜き去った、モダンでジェームズ・ボンド映画風のタッチで華麗に路線変更。
翌昭和40年(1965年)、シリーズ最終作となる『黒い賭博師 悪魔の左手』でも度が過ぎるほどの荒唐無稽さと映画テクニックで見せるなど健闘を続ける。

昭和42年(1967年)以降、香港のショウ・ブラザーズに招かれ、自身の『野郎に国境はない』、『狂った果実』、『猟人日記』をそれぞれリメイクした他、渡辺祐介脚本(ノンクレジット)の『飛天女郎』を監督。
日本と香港を往来しつつ、日本でも映画を撮る。
だが、日活が勢いを失っていく中、撮影時の飲酒を咎められるなどもあり、昭和43年(1968年)『ザ・スパイダースの大進撃』を持って日活を解雇される。

独立プロ時代

- 昭和46年(1971年)~昭和53年(1978年)
昭和46年(1971年)には、中平プロダクションを設立。
中平作品の脚本を度々担当し、助監督時代から信頼していた新藤兼人に脚本を依頼して製作した『闇の中の魑魅魍魎』が第24回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に撰ばれ好評を博した。
だが、これに洩れた大島渚監督が選考経緯不明瞭としてカンヌ国際映画祭事務当局に強く抗議、騒動となった(日本映画製作者連盟が正式出品作は1国につき1作品の規定にも関わらず、中平・大島両監督の作品を送り、カンヌ国際映画祭事務当局によって『闇の中の魑魅魍魎』が正式出品作として選ばれたという経緯があった)。
これに対して後に中平も「フランスの主催する映画祭なのですから文句をつけるものでもなく、抗議は筋違い」と大島監督を批判しているが、結果的に『闇の中の魑魅魍魎』は受賞を逃す。

翌年の昭和48年(1972年)には新藤の率いる近代映画協会に招かれ、中平作品としては意外の『混血児リカ』、さらに翌年にも『混血児リカ ひとりゆくさすらい旅』という2本のスケバンアクションを撮り上げ、本当にあらゆるジャンルが撮れるという腕の確かさを証明した。

昭和49年(1974年)、大韓民国の申フィルムに招かれ、『青春不時着』にて自身の『紅の翼』をリメイク(脚本・共同監督)。

昭和51年(1976年)に日本アート・シアター・ギルドで撮ったデカダンス描写にこだわりを見せたオールフランスロケの意欲作『変奏曲』では、人間の目に最も好ましいとされる画面・ゴールデン・セクション・サイズ(1:1、618)を、映画としては世界で初めて導入する。
この時のクランクイン後まで続いた金銭トラブルや諸々の問題は中平をかなり疲弊させたとの見解もある。

その後、酒と睡眠薬の乱用も災いしてか身体が衰弱。
以後、映画界からは遠ざかり数本のテレビ用2時間ドラマを演出するが、そのほとんどが映画テクニックが要となるサスペンス物である。
中平康らしかったと言えよう。
その中には彼が好んだウィリアム・アイリッシュ原作の作品もあった。

胃癌の末期であることが分かり、胃癌であることは本人には直接には伝えられていなかったともいわれる。
結局、胃癌の末期状態でありながらも、点滴を射ち、担架に寝ながら演出したオードリー・ヘップバーン主演のサスペンス『暗くなるまで待って』をリメイクしたテレビ用2時間ドラマ『土曜ワイド劇場 涙・暗くなるまで待って』が遺作となる。
これら晩年のテレビの仕事は、彼を助監督から監督に昇進させ、最後まで彼の才能を買っていた水の江滝子によって与えられた仕事であった。

昭和53年(1978年)9月11日、胃癌のため52歳の若さで死去。
葬儀には黒澤明、渋谷実らの姿も見られ、「彼ほど映画が好きだったやつはいない」と語る映画関係者もいたと伝えられる。
若過ぎる死にその才能を惜しむ声は今も少なくない。

晩年は、オードリー・ヘプバーン&ビリー・ワイルダーの『昼下がりの情事』のような映画をジュディ・オング主演で映画にしたいと口にしたり、モームの『月と六ペンス』や、シュテファン・ツヴァイクによる伝記小説『バルザック』等の映画化を希望していたという。
評論家の田山力哉、娘の中平まみによる評伝がある。

評価

小林信彦(中原弓彦)は、昭和31年(1956年)の『牛乳屋フランキー』や昭和35年(1960年)の『地図のない町』等で封切り当時から中平作品を高く評価していた。
小林信彦(中原弓彦)は、昭和46年(1971年)に「笑殺の美学―映像における笑いとは何か」(大光社)の中で、『牛乳屋フランキー』について「日本映画史に残る傑作」と書いた。
劇中でフランキー堺が見せる、白いツナギ服にガンベルトを装着した二挺拳銃式牛乳配達(中平の助監督時代のスタイルを思わせる)など伝説となった。
しかし、『牛乳屋フランキー』は公開後、35ミリ原版の一部が欠落しており、「幻の傑作」といわれてきた。
ところが16ミリ化された全長版が神奈川県湯ヶ原町の図書館で発見され、平成4年(1992年)、にっかつ(現・日活)から「復元版」としてレーザーディスク化され、若い世代にも中平の名が知られるところとなった。

その後も小林信彦によって「川島雄三と中平康の主要作品は今でも前衛なのだ」等と評価されて、今日ある再評価への足掛かりとなる。

中平の死後20年近く経った平成10年(1998年)には映画評論家・ミルクマン斉藤による中平康を再評価する動きが見え始めた。
平成11年(1999年)には中平まみ著『ブラックシープ 映画監督「中平康」伝』(ワイズ出版)刊行記念「中平康レトロスペクティヴ」と題して映画8作品が渋谷ユーロスペース他、全国で上映され、一気に再評価の気運が高まる。

平成15年(2003年)には第16回・東京国際映画祭協賛企画「映画をデザインした先駆的監督・中平康レトロスペクティヴ」として『闇の中の魑魅魍魎』と『変奏曲』を除く国内の映画全作品に加えて、日本初公開となる『狂恋詩』、『猟人』の2本の香港作品まで上映させるという大規模な回顧上映が渋谷ユーロスペース他、全国で開催され多くの注目を集めた。
ユーロスペースでは、軽妙洒脱な持ち味が出た『誘惑』上映後に、その新鮮な驚きと感動で場内に拍手が上がったほどであった。

この回顧上映時には『猟人日記』に準主演するなどして中平作品とも関わりのあった戸川昌子が主催する文化サロン「青い部屋」にてミルクマン斉藤と戸川による中平康トークイベントも開催され、こちらも若い映画ファンを中心に賑わいを見せた。
またユーロスペースでは『月曜日のユカ』上映に併せて加賀まりこがトークショーのゲストとして来館、つめかけた若い観客達に向かって「(『月曜日のユカ』は)巨匠の作品ってカンジじゃないでしょう? そこが良かったんじゃない」とコメントした。
石原裕次郎の『狂った果実』は古くから名作として知られるところであったが、フォトジェニック極まりない『月曜日のユカ』もまた多くの若い観客達によって現在では最も有名な中平作品となっている。

そして現在の目で見ると中平康の自伝のようにも見える(ミルクマン斉藤による)といわれる後期作品『闇の中の魑魅魍魎』と、日本映画の枠からの脱却を計った『変奏曲』は過去にビデオ化されており比較的鑑賞が容易な作品であるが、評価については賛否が分かれている(荻昌弘は『変奏曲』をその年のキネマ旬報ベストテンのベスト3にあげている)。
一時期、すっかり陳腐化した60年代作品が多く再上映され、映画ファンに見下げられてしまった不運もある。
対して、傑作揃いともいわれる初期作品は一部で極めて高い評価を得ているにも関わらず、鑑賞の機会が多いとは言えず、中平が本領を存分に発揮していた初期作品については、まだまだ今後の再評価が待たれる。

「20年早かった監督」と言われたり、思想よりも洗練とテクニックを重んじる中平の作品は、現在の観客にこそ受け入れられるのではないかという声もある。
その一方で、日活時代の後期は急速な衰えを見せて企画も会社お仕着せばかりになり、飛躍の機会を失ったと言われる。
60年代から70年代にかけて、モダン派と並び称された岡本や増村、鈴木らが鬼才・巨匠として遇されて行く中、取り残された形で世を去り、今なお沢島忠と共に十分な再評価が得られてはない一人である。
岡本、田山力也の評伝ではこの時期泥酔しながら仕事に臨むことが多くスタッフや俳優の信頼を失墜したように書かれているが、このへんはなお検証を要するところである。

平成17年(2005年)には韓国の釜山国際映画祭にて成瀬巳喜男監督『浮雲 (映画)』、今村昌平監督『神々の深き欲望』、鈴木清順監督『ツィゴイネルワイゼン』等と共に『狂った果実』も紹介、上映された。
また韓国でも「中平康レトロスペクティヴ」が開催され、芦川いづみの可憐さと共に『あいつと私』等、話題となった。

2008年4月23日、Rock Chipper Record社から、日活時代の中平作品の音楽だけを集めたCD「日活映画音楽集~監督シリーズ~中平康」が発売された。

2009年4月12日から5月30日まで、東京・ラピュタ阿佐ヶ谷にて、「孤高のニッポン・モダニスト 映画監督・中平康」と題して日活時代の作品から選ばれた34作品が上映予定。

スタイルとテクニック

『殺したのは誰だ』

強い調子の画面を狙い、全編パンフォーカスに挑んだ社会派サスペンス。
撮影は姫田真左久。
ラスト近くで汽車の中で車窓の風景を眺めている渡辺美佐子の顔のアップでは、スクリーン・プロセスを使い車窓の風景を渡辺の瞳の中に反射させて映り込ませた。
小林旭のビリヤード・シーンではドリーをふんだんに使い4日間も掛けて撮影し、クライマックスの自動車衝突シーンの撮影では13日間の徹夜となり100カットも使ったという。
東京のど真ん中の交差点の中央でカメラが360度パンし交差点の全ての方向から芝居のタイミングに合わせて必要な劇用車が来るなどさせた。
映画テクニックへの執着としては、ある意味、最高潮に達した作品であると思われ、二度と出来ない壮絶な撮影現場だったと伝えられる。
尚、小林旭は本作について「これで映画の芝居を覚えた」と語っているという。

『誘惑』

「映画をデザインした先駆的監督・中平康レトロスペクティヴ」で上映時に拍手も上がった中平の軽妙洒脱路線の名作。
一流好みで銀座が好きだった中平は、美術の松山崇と組んで、銀座通りの向かい合ったビルの家並みを本建築で作った。
そして銀座のバーのマダムやホステスは、実際に中平の行きつけの店にいた本物をセットに連れて来て出演させた。
二階建てのビルは上下ガラス張りで人物の動きが見えるようにするなどして凝った。
こちら側のビルと向かい側のビルとで展開するドラマをクレーンを使用した撮影と絶妙なカッティングで繋いでみせた。
安井昌二と踊っている轟夕起子が彼の肩にシラミを発見するシーンでは、当時で一番長かった100ミリの望遠レンズで、シラミを相手に一時間かけて撮ったと伝えられる。
また本作ではキュートでモダンな左幸子を見ることが出来る。

『紅の翼』

巻頭の一人称カメラ、幾何学模様のような螺旋階段、そして風船が空に舞い上がり主人公の飛行機へと繋がるオープニングから冴え渡る、傑作とする声も多い航空サスペンス。
前半、セスナ機が滑走路に出て離陸する迄の数分間を執拗なまでにリアルタイムで追い続け、離陸の瞬間を盛り上げた。
このシーンでは、あまり細かくカットを割ったので編集者の辻井正則が音を上げたというエピソードも。

夜明けとともに石原裕次郎、中原早苗らが犯人のピストルに監視されつつ不時着したセスナ機に乗り込もうとするシーンでは、徐々に夜が明けてくる状態をリアルに表現するため、まず飛行場の空き地に横70メートル、高さ15メートルの巨大な半円状のホリゾントを建設、夜明け直前の空を描かせた。
何カットか撮った後、ホリゾントの色を少し明るく塗り変えてから再び撮影をする、という作業を繰り返し、それを二日間も続けて夜明け直前から夜明け迄のシーンを完成させた。
このような方法を取らずに、現実の空を使って役者の芝居、カット数もある夜明けシーンを撮ろうとしても、一瞬で空は明るくなってしまうため現実問題として不可能である。
しかしだからといって中平の行ったような手間暇のかかる常軌を逸した撮影方法は行わないのが常識である。
だが、中平は会社側の「ハリウッドでやれ」という反対を押し切って実行した。

『その壁を砕け』

冤罪を題材にした傑作ミステリー。
中平が本編部分を撮影している間、当時チーフ助監督だった西村昭五郎に第二班を編成させ(第二班の撮影は間宮義雄)、凝りに凝ったタイトルバックを撮影させた。

東京~新潟間を疾走する小高雄二の運転するワゴン車にクレジットタイトルが被るもの。
運転する小高の主観ショットから、そのまま右に180度パンして運転する小高を捉えるショット。
木々の間から覗く太陽を追う太陽移動ショットから、そのままパンダウンして運転席からの小高の主観ショットへ。
ワゴン車内のカーラジオ付近のアップから後部座席へドリーアウトして小高の背後から車の進行方向を映すショット。
運転席の小高を真横で並行して走る車から捉えてナメるように対向移動していくショット。
走るワゴン車のボディ後方右に張り出しで取り付けられた固定されたカメラからのショットかと思いきや、意表を突いて横・左方向にスライドしてカメラが車内に入るような形となり、そこに「監督 中平康」のクレジットが出るショットなど。
見事な導入部を作り上げた。
特にミステリーやサスペンスでは、これから起こる出来事を暗示させるような、こうした描写は重要であり、そのためには手間を惜しまなかった。

尚、このタイトルバックは、新藤兼人によるオリジナルの脚本上では「ワゴン車、風を切って走る。タイトル―音楽」、「町へ突入するワゴン車」、「通り抜けるワゴン車」等と書かれているのみである。
また本作では効果音や音響面でのこだわりも見せた。

『泥だらけの純情』

身分違いという設定の吉永小百合と浜田光夫が結ばれない恋をする純愛物。
作品によって常に演出や映像のトーンを変える中平は、本作ではフィルムの増感処理の方法を変えてソフトな画面を作っており、色彩も薄く滲んだ独特のトーンになっている(ただし劇場の映写されたスクリーンで観なければ識別できない微妙な効果のため、テレビやビデオ鑑賞では判りにくい)。
楽しげに雪を投げ合う雪遊びのシーンのモンタージュも名場面として有名。

意外なところに意外な人物を出す天才
中平康は、主演格のスターよりも、西村晃、滝沢修、仲谷昇、小池朝雄といった俳優を使い「脇の味」を出すことを得意とし、その独特なキャスティングのセンスと遊び心で「意外なところに意外な人物を出す天才」といわれた。

『誘惑』には岡本太郎と東郷青児が本人役で特別出演。
『紅の翼』では原作者の菊村到が新聞社の編集長役で出演。
『泥だらけの純情』では実際に中平が通っていた銀座のバーで馴染みだったホステスを、浜田光夫に脇毛を抜かせようとするホステス役として起用した他、新聞勧誘員の役で登場する野呂圭介も中平ならではの絶妙な味であった。

『現代っ子』ではミッキー安川が悪徳教師役で出演し、渥美清がTVタレント役、水の江瀧子がTVプロデューサー役でそれぞれカメオ出演した他、物語のスジとはあまり関係なく出てくる渚エリも絶品。

『光る海』では山本嘉次郎が大学の卒業式で卒業証書を渡す校長としてカメオ出演。
『黒い賭博師』では漫画家の加藤芳郎が汽車の中のギャンブラー役で出演。
『野郎に国境はない』では冨士眞奈美が旅客機の乗客として小林旭の隣に乗り合わせる美女としてワンシーン出演。
『黒い賭博師 悪魔の左手』では戸川昌子がパンドラ王国の第一王妃役でカメオ出演、原泉は凄腕のギャンブラー役、ジュディ・オングは凄腕の「少年」ギャンブラー役で出演。
『変奏曲』では二谷英明がスチル写真(止め画)とセリフのみで出演した。

また、自身の監督作品である『街燈』では駅弁の販売員の役で、『喜劇 大風呂敷』では船上の客として中平自身が出演している。

エピソード

松竹大船撮影所の戦後第1回助監督募集の試験の時、中平は筆記試験では極めて優秀な成績であったが、論文だけは最低点だった。
それは「こうした試験に論文を書かせるなんてけしからん」とだけ書いたからであった。
試験官の吉村公三郎と川島雄三は、かえって面白がって中平を合格させた(石坂昌三著「巨匠たちの伝説 映画記者現場日記」三一書房)。

『狂った果実』では、クランクイン初日の最初のシーンが、なんと石原裕次郎と北原三枝のキス・シーンだった。
通常、このような重要なシーンは俳優やスタッフが慣れてから行うのが普通で、まして石原裕次郎は当時まったくの新人であり、無謀な撮影であった。
しかし、このような重要なシーンをあえて最初に撮ったのは、中平が助監督時代によく就いた、師匠の渋谷実の演出法を受け継いだものであるといわれる。
中平は裕次郎に、いつものようにやれ、映画を撮ってるなんて思うな、と演出したという(石坂昌三著「巨匠たちの伝説 映画記者現場日記」三一書房)。

妥協を許さぬ「うるさ型」の監督として知られ、『殺したのは誰だ』の時は同じうるさ型の作曲家・伊福部昭と組むことになり、両者の衝突は避けられぬと撮影所内には作品の完成を危ぶむ声まであったと伝えられる((株)バップ『伊福部昭 未発表映画音楽全集 日活編』VPCD-81189)。
また「演技が気に入らない」としてクランクイン後の俳優交代劇があったことも知られている(中平まみ著『ブラックシープ 映画監督「中平康」伝』ワイズ出版)。

中平は『学生野郎と娘たち』のラストシーンで中原早苗が「うるせえぞ! ロッキード!」と叫ぶセリフ(このセリフは台本には無い)と、清純派の芦川いづみをコールガールの役にしたこと等で会社側と喧嘩になり、一時は他社に行くことも考えたが五社協定で無理だったと書き残している(「キネマ旬報」昭和37年(1962年)春の特大号)。

『若くて悪くて凄いこいつら』の殺し屋役で、ガソリンを浴びて火だるまになる決死のスタントを自ら行う等、その体を張った演技と特異な風貌で中平にも度々起用されていた名バイプレーヤー・榎木兵衛の話によると、助監督時代からスタイリストとしてダンディーな中平であったが、面長な顔だったため、『野郎に国境はない』の時に鈴木ヤスシと榎木兵衛から「馬ヅラ」と言われて本気で怒ったそうである。

本来『黒い賭博師 悪魔の左手』のラストシーンは、中平のプランでは劇場に揃った主演の小林旭ら出演者一同が、観客に向かって「今年も日活映画をよろしく!」と挨拶をするという掟破りのもので、撮影もされていたが、会社側に激怒されてカットされたと伝えられる。
中平は不満だったらしく、その後『青春ア・ゴーゴー』を撮り、こちらでも同じことをやり、この作品の監督を3日で降ろされた(昭和53年(1978年)「映画芸術」12月号)。

葬儀に駆けつけた『土曜ワイド劇場 涙・暗くなるまで待って』で主演した秋吉久美子は、監督が癌で死期が近いとは気がつかなかった、そんな弱々しい演出ではなかった、と言っていたという。
中平は作品完成から一週間後に息を引き取った(昭和53年(1978年)「映画芸術」12月号)。

交友関係者
川島雄三
中平は映画界に入る前から川島作品には注目しており、その後も親交が続いた。
中平はマジメなことが嫌いで「日本軽佻浮薄派」と自任していたが、これは川島の影響も少なからずともあるようである。

黒澤明
中平は黒澤明にも心酔していた。
黒澤が松竹で撮った『醜聞』、『白痴』の時には、自ら志願して助監督に就き、その縦横無尽な働きぶりに黒澤に気に入られ、その後も親交が続いた。
その親交については後に中平がエッセイに書き残している。
黒澤からは、中平が監督に昇進したら脚本を一本書いて提供するとまで言われていたという。
黒澤は中平の葬儀にも出席した(中平まみ著『ブラックシープ 映画監督「中平康」伝』 ワイズ出版)。

和泉雅子
なぜか中平とは馬が合い、中平邸に遊びに行ったことのある数少ないスター女優。
『泥だらけの純情』で吉永小百合が浜田光夫に言うナゾナゾは、中平に頼まれて和泉が考えたものであると伝えられる。
中平に高島屋で売っているアメリカ製のお人形を買ってくれと駄々をこねたら買ってきてくれたこともあったそうだ。
中平の映画も全て観に行ったと語っており、特に『危いことなら銭になる』は四番館、五番館まで観に行ったという。
また和泉は事ある毎に中平のことを、ハリウッドに行っても通用したくらいの才能ある「天才」、「ド天才」等と称して、彼を尊敬していると語る。
また和泉としても中平の頭の中は感覚的に体で分かっちゃう、という発言もしている。
こうした和泉の発言は様々な文献の中で散見される。
特に『KAWADE夢ムック 総特集 鈴木清順』(河出書房出版)のインタビューにおいて、鈴木清順の本であるにも関わらず中平の話で盛り上がってしまっている、というのが面白い。

その他の俳優、スタッフ
中平は、思ったことをズバズバ言う辛辣さと演出時の厳しい要求とで周囲に毛嫌いされることが多く、俳優陣にもあまり人気がなかったようである。
しかし、女優では、月丘夢路、北原三枝、冨士眞奈美、稲野和子、加賀まりこ、和泉雅子、峯品子などと馬が合ったようで作品にも数本出演している。
中原早苗、渡辺美佐子の演技を賞賛し、その他にも細川ちか子、岸輝子なども好んで作品によく出演させていた。
中でも早口でセリフを言える中原早苗の演技を特に気に入っていたようで、中平作品に11本も出演して最多出演俳優となった。

男優では二谷英明が中平に理解を示していたようである。
多数の作品に出演していた他、中平最後の映画となった『変奏曲』においてもスチル写真(止め画)とセリフのみの出演をしている。
浦山桐郎とは犬猿の仲だったことも有名。

その他の人物
石坂洋次郎、柴田錬三郎など各界の芸術家、小説家などに交友関係があり、『砂の上の植物群』の原作者でもある吉行淳之介とは呑み友達であったと伝えられる。

中平康を演じた俳優
石黒賢
平成16年(2004年)『弟』(テレビ朝日系)。
石原裕次郎の生涯を豪華キャスト競演でドラマ化。
『狂った果実』を演出するシーンがあり、石原裕次郎(徳重聡)に厳しい演出で無理難題を押し付けるが、逆に裕次郎から監督に「ダメ出し」をされて一触即発の状態となり、石原まき子(仲間由紀恵)が止めに入るという一幕も描かれた。
完成試写では石原慎太郎(長瀬智也)から自分の演出に対して意見され、激昂して試写室を立ち去った。

備考

愛称は「ズーさん」。
ズーズー弁を喋ることで「ズー」という愛称を持っていた佐々木康監督と同じ「康」という名前であった為(中平まみ著『ブラックシープ 映画監督「中平康」伝』(ワイズ出版))。

目立ちたがり屋で、ヘソ曲がりの中平は、住んでいる家も常識破りの家で、普通、家は門を入ると玄関があるが、中平の家は門を入ると裏口があり、裏に回ると玄関がある、という不思議な一風変わった家であったと伝えられる(石坂昌三著『巨匠たちの伝説 映画記者現場日記』三一書房)。

中平康の映画のテンポの速さは群を抜いているが、中平自身は「私は速すぎない。他の監督の映画が遅いのだ」と言い、しかし「速い」、「遅い」と言っても、それはカット割りの細かさや編集によるものだけでなく、もっと映画全体の性質のことであると語っている(「キネマ旬報」昭和34年(1959年)3月上旬号)。

昭和53年(1978年)「映画芸術」12月号によると、鈴木清順は中平作品の試写の時には、よく観に来ていたという証言もある。
また鈴木清順は平成11年(1999年)、「中平康レトロスペクティヴ」開催時のパンフレット兼一般書籍に「墜落者」と題した追悼文を寄稿している。

シャンソン好きの中平は、『街燈』の主題歌を自ら作詞して旗照夫に歌わせた(作曲は佐藤勝)。
『猟人日記』の銀巴里のシーンでは美輪明宏が歌うシーンがある。
また『若くて悪くてすごいこいつら』における谷川俊太郎作詞の主題歌(歌:高橋英樹 (俳優))は、その破れかぶれで抱腹絶倒の詞によって今や伝説的。
また中平は『黒い賭博師 悪魔の左手』でも主題歌を作詞しており、その詩は「ジョルダニア」という意味不明の言葉を連呼するもので、小林旭の哀愁を帯びた歌声によって知られる。

中平によるエッセイ『エロ・グロ・ナンセンス 故人に見せたかった映画』によると、実は相当なサイエンス・フィクションファンであると語り、早川書房から出たミステリやSFシリーズは殆ど読んでいたという。
しかし、いわゆる本格派は嫌いで「異色作家短編集」のようなものを好み、SF映画では『バーバレラ』を手放しで絶賛、「故川島雄三先生に観てもらいたかった」と書いている(「映画芸術」昭和43年(1968年)11月号)。

中平康の香港名は「楊樹希」と書いて「ヤン・スーシー」と読む。
「康→ヤスシ→ヤン・スーシー」となったものと思われる。
ショウ・ブラザーズ作品は、後に香港にて『飛天女郎』を除く3作品『特警009』、『狂戀詩』、『獵人』がDVD化された。

本当はデビュー作は『狙われた男』でも『狂った果実』でもなく、山本周五郎原作の「かあちゃん」になる筈だった。
中平自身が映画化を希望したものだが、会社側は田中絹代が主演するなら撮らせる、という条件を出していたが実現しなかった。
「かあちゃん」は後に、同じモダン派・市川崑が平成13年(2001年)に岸惠子主演で映画化した(「キネマ旬報」昭和37年(1962年)春の特大号)。

中平が自作の中で特に気に入っていたものは、『狂った果実』、『街燈』、『誘惑』、『紅の翼』、『才女気質』など。

1970年ごろには、早稲田で「カレーハウス・ジャワ」というカレー屋を開いていた(『日活アクション無頼帖』山崎忠昭)。

[English Translation]