中村一氏 (NAKAMURA Kazuuji)
中村 一氏(なかむら かずうじ)は安土桃山時代の大名。
豊臣政権の三中老の一人。
年譜
生年未詳:近江国甲賀(現・滋賀県甲賀郡)出身とされる。
甲賀二十一家の1つ、瀧(多喜)氏の出と考えられる。
はやくから豊臣秀吉(豊臣秀吉)に仕えた。
天正元年(1573年)頃秀吉より近江長浜のうち200石を拝領する。
天正5年(1577年):天王寺を攻略、石山本願寺門跡派の一揆を鎮圧。
天正10年(1582年):山崎の戦いに鉄砲隊を指揮して武功をたてる。
天正11年(1583年):賤ヶ岳の戦いに参戦。
岸和田城主となり3万石を拝領する。
天正13年(1585年):近江国水口岡山城主になり6万石を拝領する。
従五位下式部少輔に叙任。
天正18年(1590年):北条征伐において豊臣秀次隊の先鋒を務め、ほぼ単独で松田康長の守る山中城の主要部分を攻略。
功により駿河国駿府14万石を拝領する。
文禄4年(1595年):駿河直領(蔵入地)の代官として駿河を任される。
慶長3年(1598年):三中老の一人に任命される。
慶長5年(1600年):関ヶ原の戦いでは東軍に属すが、合戦前の7月17日(8月25日)に病没。
合戦には弟の中村一栄が出陣した。
戒名は大竜院殿一源心公大禅定門。
墓は静岡市の臨済寺 (静岡市)にある。
家督を継いだ長男の中村一忠も東軍に属し、美濃表で大いに戦った。
その後の中村家
戦後、その戦功によって伯耆国米子藩17万5,000石および国持大名の格式を与えられたが、慶長14年(1609年)に中村一忠は急死。
跡継ぎを欠いた中村家はわずか2代で断絶。
江戸幕府により改易された。
一忠の側室(梅里)が男子(中村一清)を産んでいるが、末期養子の認められない時代であり、また、将軍に拝謁を済ませるなど認知を受けてもおらず、跡目としては認められなかった。
一清は後に鳥取藩主池田光仲に仕え、禄高150石で鳥取藩家老池田知利の客分となる。
その他
岸和田城主時代の天正12年(1584年)、雑賀・根来衆に攻められ、居城岸和田城が落城寸前に追い込まれた(岸和田合戦)際、大蛸に乗った僧と数千の蛸に城を救われたという伝説(蛸地蔵伝説)がある。
出自について
近江源氏佐々木氏の族山崎氏の余流、桓武平氏良文流、藤原氏流、橘氏流とする説があるが、正確には不明である。
『米子市史』には、数種類ある中村氏にみられるルーツ(源氏末裔、平氏末裔説等)は不確定的要素が多く、歴史的事実とみなすことはできないが、一忠の父・一氏以降の系譜は信頼性が高いとしている。
鳥取藩士中村家の末裔義和所有の系図は、350年以上が経過していることが鑑定により明らかである。
一氏の父は吉一としており、系図には多くの文献で一氏の父とされている一政という名は見出せない。
『駿国雑志』には「中村一氏は尾州中村(現・愛知県名古屋市中村区)の住人中村孫平次一政の子なり。
本姓詳ならず(本姓不明)」とある。
『滋賀県甲賀郡誌』には、「中村一氏は弥平次一政の子にして初め瀧孫平次と称し後、中村式部少輔とあらたむ。瀧村の人なり」とある
『近江與地志略』には、「一氏は佐々木山崎の余流にして此の地多喜の産なり。」とある。
一族・縁者
正室・安養院(池田恒興娘)
子・中村一忠
米子藩初代藩主。
子・中村甚左衛門
細川幽斎に仕える。
関ヶ原の戦いにおける田辺城 (丹後国)籠城(田辺城の戦い)では、皇居への使いという密命を受け田辺城を脱出した(「中村甚左衛門田辺御籠城御使者一件」参照)。
孫・中村弥一
甚左衛門の子。
細川忠興の命により「沢村」に改姓、細川家家老沢村大学一門と同様の処遇を受けた。
曾孫・中村正辰(熊本藩士)
熊本藩主加藤忠広に仕え500石、改易後に新藩主細川忠利に仕え1,000石。
勘三郎
一氏の末弟・中村右近(蜂須賀家5,000石)の孫。
歌舞伎江戸三座の一つ中村座の座元・中村勘三郎 (初代)と同一人物とする説もあるが明確ではない。
弟・一栄
妹婿・横田村詮