中西秀長 (NAKANISHI Hidenaga)

中西 秀長(なかにし ひでなが、生年不詳 - 慶安3年8月11日 (旧暦)(1650年9月6日))は江戸時代初期の薩摩藩の武士。
諱は秀長。
通称は弥兵衛、長門守。
能の名人。
近江国小幡村の領主の子孫である小幡弥兵衛宗以の子。
諱は秀長。
12歳の時に豊臣秀次に奉仕し、浪人して上京した。
呉服商となり、家号を虎屋と称す。
慶長年中は虎屋または小幡氏を称す。
薩摩藩に移って後も、しばらく「虎屋」を称していた。
このため、かつて中西秀長の屋敷のあった通りに「虎屋の馬場」という名がついた。

のちに能の名人であるが故に、島津忠恒に300石で仕官す。
のちに1000石となる。
征夷大将軍徳川家光の薩摩藩桜田藩邸御成の際は能を披露する。
また、薩摩藩に金春八郎大夫厳達、大坂本願寺坊官少進法印に伝わる謡曲や舞踊を伝え、島津忠恒に能を伝授した。

また禁裏より参内を命じられ、正六位、長門守を叙される。
寛永年間に中西に改姓する。

墓は浄土宗知恩院の末寺、不断光院。
法号は久遠院円日大居士。
墓所から宗旨は浄土宗と思われる。
また、息子は中西分右衛門(初め、弥左衛門。墓は父に同じ)、中西長門右衛門秀乗(墓は福昌寺)。
子孫は代々、能楽を世襲する。

年譜

慶長7年;島津忠恒に仕官。

慶長9年;禁裏より正六位、長門守を叙される。

元和 (日本)6年;加増されて1000石となる。

寛永7年4月8日;徳川家光が薩摩藩桜田藩邸に御成となり、能を披露す。

寛永13年;この年作成の「薩州鹿児島衆中屋敷御検地帳」によると、『新堀の上』に『中屋敷 3反6畝20分 中西長門守殿』とある。
鎌田出雲守政統の屋敷が近くにあった。

[English Translation]