乾和信 (INUI Kazunobu (和信))
乾 和信(いぬい かずのぶ、天文 (元号)13年(1544年) - 天正13年11月29日 (旧暦)(1586年1月18日))は、安土桃山時代後期の武士。
山内一豊の臣。
のち山内姓を賜い山内彦作と名乗る。
家禄は1300石。
妻は山内一豊の養女(実は安東郷氏の娘)。
家紋は「丸之内桔梗」。
乾和三の兄。
来歴
乾和宣の嫡子として美濃国に生まれる。
和信は「一豊公前々(天正6年以前)より御存知に遊され」とあり、山内一豊が天正6年(1578年)播磨国三木城主別所長治攻めの際に初めて正式に召抱えられたとある。
この合戦で軍功を立てたが負傷しため、気遣った一豊が着ていた紙製の陣羽織を脱いで和信に与えたという。
その後も一豊に重用され、一豊の養女(実は安東郷氏の娘で、山内一豊の姪にあたる)を妻に賜い、山内姓の使用を許された。
天正13年(1585年)一豊が近江国長浜に転封となると、知行1300石を与えられ家老となった。
しかし、同年11月に起きた天正大地震の時、一豊の娘与祢を助けようとして、夫婦ともに死亡した。
享年42。
系譜
乾氏は清和源氏美濃土岐氏の支流。
土岐頼貞の四男道謙の子孫、土岐久右衛門重頼が、美濃国池田郡東野村を本拠とし、土岐氏の居城である稲葉山城の北西(乾)の方角であったため名字としたという。
家族
和信には二子がいたが、父母殉死の際幼少のため、見性院 (山内一豊室)に養育された。
そのため家督は弟の乾和三が嗣いだ。
和信には二子は、一豊から偏諱「一(かつ)」の字を賜った。
しかし、「一」の字を憚り同音の「勝(かつ)」の字を用いてそれぞれ勝益、勝次と称した。