乾正厚 (INUI Masahiro)
乾 正厚(いぬい まさひろ、生没年未詳)は、勤皇家。
土佐藩士。
板垣退助家の分家乾左八正春の養子。
幼名楠弥太。
字は市郎平(いちろべい)。
実は同藩士本山彦弥茂良の息子。
家禄は28石8斗。
妻は土佐藩士、明神民之助信貞の姉。
来歴
1830年(天保元年)11月24日実伯父の乾正春が病気で無嗣子のため、正春の実弟で本山伊平の養子となっていた本山彦弥茂良(前名乾右馬之助茂良)の息子である本山楠弥太が、正春の養子となった。
1831年(天保2年)3月28日、養父正春の跡目五人扶持切府高十石之内の七石を下し置かれ、格式新御扈従を仰せ付けられた。
文久の政変の後、1864年(元治元年)5月13日京都で小目付役(小監察)御軍付御用仰せ付けられ、同時に尹宮様(朝彦親王)御用向御勤務を仰せ付けられ、白銀50枚を下された。
同年7月17日長州兵の入京を阻止せんと欲し、薩摩藩士吉井幸輔、久留米藩士大塚敬介らと議して連署の意見書を朝廷に建白し、その決意を求めた(禁門の変)。
1866年(慶応2年)6月に長防探索用を命ぜられ探索方として活躍するが、その後消息不明(おそらく死亡)となり、無嗣子ゆえ止むを得ず板垣退助の次男乾正士を後嗣として家を継がしめた。
遺骨は無いが墓は高知市一宮薊野にある。