亀井茲矩 (KAMEI Korenori)

亀井 茲矩(かめい これのり、1557年(弘治 (日本)3年)- 1612年2月27日(慶長17年1月26日 (旧暦)))は、日本の武将。
江戸時代初期の大名。
因幡国鹿野藩初代藩主。
贈従三位(1912年)。
槍術の達人であり“槍の新十郎”の異名を持つ。
津和野藩亀井家初代。

中国地方の戦国大名・尼子氏の家臣・湯永綱の長男。
母は多胡辰敬の娘。
正室は山中幸盛の娘。
継室は多胡重盛の娘。
子は亀井政矩(次男)、娘(松平忠清正室)など。
旧姓は“湯”。
初め湯国綱と名乗る。
通称は新十郎。
義父に尼子経久に仕えた亀井秀綱がいる。
子孫に政治家の亀井久興、亀井亜紀子 (政治家)親子がいる。

経歴

尼子氏が毛利元就によって滅ぼされると、流浪の身となった。
流浪時代については定かで無いところも多い。
潜伏先は京都であったらしく、尼子氏の残党である山中幸盛(鹿介)と尼子勝久とに出会ったのもこの頃(永禄11年(1568年)頃)と推察される。
年齢を考えると、天正元年(1573年)9月頃に山名家と離反するあたりから、本格的に実戦に参加し始めたものと思われる(このとき17歳)。
同年、茲矩は拠点の一つであった市場城を任されている。
年代は定かではないが、幸盛との緊密な関係から、幸盛の娘(生母は尼子氏家老職筆頭・亀井秀綱の娘)を娶り、亀井姓を名乗るようになった。

亀井茲矩の少年期に展開された尼子再興運動は、常に強大な毛利軍と寡兵で戦わねばならず、一時的な成果しかあげられなかった。
しかし新興勢力である織田信長が台頭、中部地方を伺う情勢となり、事態は一変する。
尼子残党はこれに臣従し、その支援を受けることとなった。
織田方から見ても、中国地方にゆかりのある尼子残党は利用価値があった。

尼子残党は織田方(特に秀吉)の傘下に入り、播磨国を転戦するも、天正6年(1578年)に尼子勝久や山中幸盛らが上月城で孤立してしまう。
勝久は上月城の放棄を選ばずに自刃、鹿介は降伏後に処刑された。
この時、茲矩は羽柴秀吉の軍と同行していた為、難を逃れている。

その後は中国攻略を進める羽柴秀吉の軍に属し、天正9年(1581年)には吉川経家が守る鳥取城攻略で戦功を挙げたため、因幡国鹿野城主に任命され、1万3500石を領した。
僅か24歳の若年で前線の城主を任されている事からして、秀吉は相応の信頼を寄せていたものと考えられる。
また、中国大返しの際には後詰めとして鹿野城に残留し、毛利氏への牽制・監視役を果たした。

本能寺の変後、秀吉の家臣となり、豊臣政権下において銀山経営、干拓、用水路開設などの行政面における手腕を発揮した。
文禄・慶長の役では水軍を率い、朝鮮でも戦っている。
秀吉死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いでは東軍に与して最前衛で戦っている。
関ヶ原後には鳥取城を攻撃するが、秀吉も苦戦した堅城であった為なかなか陥落せず、西軍の但馬国竹田城主・斎村政広を寝返らせて、更に城下の焼き討ちによってようやく落城させた。
しかし、焼き討ち行為は家康の逆鱗に触れることになる。
責任を回避すべく、茲矩は斎村政広が焼き討ちの首謀者と申し出たとされる。
斎村政広は焦土戦術の責任をとって自害・改易。
茲矩は功績によって3万8000石に加増されている。

徳川政権下においては農業開発、銀山開発、用水路開設などの行政面に手腕を振るった。
その一方で、江戸幕府の朱印状を得てシャム(現在のタイ王国)と交易を行なうなど、世界に視野を広げた実業家でもあった。
日本海側の中国地方の大名が南蛮貿易を行った事例は希少である。
彼が行政面に優れ、交易の視野を世界にまで広げることができたのは、流浪時代に先進地帯である近畿圏で活動していたことや、主君が信長・秀吉であった影響が大きかったものと思われる。
時代に翻弄され小藩の領主に止まったが、政治手腕・実戦経験ともに充実した人物と言えよう。
亀井家はその後、嫡子政矩の代に石見国津和野4万3000石に加増転封されている。

逸話

司馬遼太郎は以下のように述べている。
「茲矩には中国趣味よりもインド趣味があり、鹿野を王舎城と名つけたこともその表れだった。」
「…茲矩に仏典の素養があったことを思わせる。」
「それ以上に思想への憧れを感じさせるのである。」
そしてそれが森鴎外や西周 (啓蒙家)などを生んだ津和野藩の学問的気風を培ったのではないか、としている。

亀井茲矩はこうした東アジアへの関心に影響されてか、1582年に豊臣秀吉が本能寺の変に対応して中国大返しによって姫路城に戻った6月7日の翌日、毛利と講和したため茲矩に約束していた出雲半国を与えられなくなった代わりに恩賞となる別国の希望を聞いたところ「琉球国を賜りたい」と答えた。
そのため、秀吉は「亀井琉球守殿」と書いた扇を茲矩に授けたという。
(寛永諸家系図伝)
しかし茲矩は朝鮮出兵初年にこの扇を搭載した船を李舜臣の攻撃で奪われてしまった。
李の王朝への戦果報告である「唐浦破倭兵状」には扇の右から

羽柴筑前守
六月八日 秀吉(花押)
亀井琉求守殿
の三行が書かれており、上記の記録と一致する。
琉球守は律令にないユニークな官職名であり、茲矩も琉球征伐を秀吉に申し出て一度は許可されている。
しかし豊臣政権として琉球政策は島津氏を取次とする支配体系となったため、権益を有する島津家からの妨害もあって茲矩の官職名は九州の役の頃から小田原の役の頃にかけて武蔵守となっている。
その後、台州守の号を称したがこれは現在の中国浙江省の台州のことである。
ただし、文禄慶長の役で明国攻略が挫折した以降、再び武蔵守を名乗っている。
(紙屋敦之「亀井琉球守考」及び田中克行「亀井琉球守再考‐亀井茲矩の官途の変遷について‐」より)

法号:光武院殿中山道月大居士。
墓所:鳥取県鳥取市気高町田仲、島根県津和野町の亀井家墓所内、京都市の黒谷光明寺墓地。

その他

前記の茲矩が琉球を所領として望むシーンは1993年(平成5年)のNHK大河ドラマ「琉球の風」の第1話冒頭でポール牧が秀吉役の仲村トオル相手に演じられている。

[English Translation]