二条師基 (NIJO Moromoto)

二条 師基(にじょう もろもと、正安3年(1301年) - 正平 (日本)20年 / 貞治4年1月26日 (旧暦)(1365年2月17日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代 (日本)にかけての公卿である。
南北分裂後は南朝 (日本)方に属し、正平6年(1351年)以降、後村上天皇の下で関白をつとめるなど、南朝政権の重鎮のひとりであった。

生涯

父は、関白二条兼基。
母は花山源氏、蔵人頭・源兼任の娘である。
父について、『公卿補任』正和元年(1312年)の条は、兼基の子である二条道平とする一方で、兼基が死去した建武 (日本)元年(1334年)の条では、道平と師基が8月22日に「父」の喪に服した旨が記されている。
また、道平と師基の年齢差を考えても親子より兄弟とした方が自然である。
以下では、兼基を父、道平を兄として解説する。

鎌倉幕府の滅亡と建武中興期

1311年(応長元年)6月15日、11歳で元服、従五位上に叙され、禁色・昇殿を許される。
1318年(文保2年)に後醍醐天皇が即位した時点で、正二位行大納言となっていた。
後醍醐天皇は鎌倉幕府の打倒を目指し、1331年(元弘元年)、元弘の乱が勃発。
1333年(元弘3年 / 正慶2年)5月7日に六波羅探題が陥落した後、師基は九州における幕府の重要拠点である鎮西探題を攻略するため大宰権帥に任ぜられた。
師基は軍を率いて九州へ向かうが、鎮西探題は既に少弐貞経、大友貞宗ら九州の御家人によって5月25日に陥落しており、大宰府において尊良親王を中心として戦後処置が行われていた。
師基は大宰府で親王を補佐した。

大宰権帥となっ師基は、長門国守護を兼任したという説がある。
重要史料である「長門国守護職次第」には、鎌倉時代最後の守護である北条時直(元弘3年(1333年)5月26日降伏)の後、建武の新政期に後醍醐天皇によって守護に任じられ建武 (日本)元年(1334年)5月10日に入部した厚東武実の前に、「輔大納言」という人物が守護であったことを記載する。
この人物について、当時、権大納言であり筑前国の大宰府にいた二条師基が相当する可能性はあるが、万里小路宣房または地元豪族である豊田氏の一族とする見解もある。

足利尊氏の反乱

1335年(建武2年)、足利尊氏が反旗を翻し京へ攻め上ってくると、建武の新政に不満をもつ諸国の武士もこれに呼応し蜂起する。
京では防御態勢が整えられ、師基は西北の山陰道方面の守りを任せられて、証月坊慶政開基の法華山寺(京都市西京区御陵峰ヶ堂)に布陣する。
しかし、1336年(建武3年)1月8日、但馬国・丹後国の兵を率いた久下氏らに撃破され、大枝山が占拠された。
この軍勢は、新田一族の江田行義の軍によってその日のうちに追い払われたが、結局、その年の5月に京都は足利軍に奪われ、天皇とその軍勢は比叡山に籠った。
6月に入ると比叡山は東西から繰り返し攻められるが、新田義貞等の奮闘により防衛に成功する。
足利軍の士気が低下したのを見て、官軍は6月30日に反攻に転じ、京都市中に侵攻するが撃退される。
『太平記』によると、この失敗により意気消沈していたところ、7月5日、二条師基が加賀国・越前国の軍勢を率いて官軍に合流したことで再度奮起し、第2回・第3回の京都市中への攻撃を実行、師基も兵を率いて参戦する。
しかし、いずれも撃退され、膠着状態になったところで後醍醐天皇と足利尊氏との和睦へと物語は展開する。
しかし、この3回に渡る京都侵攻作戦は、『梅松論』『常楽記』が6月30日の出来事として記すもので、『太平記』ではストーリー構成上、この日の戦いを3分割して描いていると推定されている。

和睦成立後、比叡山にいた官軍の大部分は、後醍醐天皇と共に京都へ帰る者と、皇太子恒良親王を奉じて新田義貞と共に越前へ下る者とに分かれたが、師基はどちらにも加わらず、中院定平らと共に河内国へ落ちのびた。
後醍醐天皇は京都で幽閉されるが、12月21日に脱出に成功し、吉野において朝廷(南朝)を開く。
こうして南北朝時代が始まり、師基は、翌1337年(建武4年)1月に吉野朝廷に参内する。
二条家は、兄の道平が北朝 (日本)に、弟の師基が南朝に従い、分裂した。

師基は、1339年(延元4年 / 暦応2年)に後村上天皇が即位した時点で内大臣、その後、左大臣に任じられた。

観応の擾乱と正平の一統

1350年(正平 (日本)5年 / 観応元年)、北朝側(幕府)の内部抗争である観応の擾乱が勃発する。
劣勢に陥った足利直義は南朝軍の力を借りて挽回を図ろうと12月に南朝に降伏を申し入れる。
この対応をめぐって重臣らで議論がなされた。
洞院実世は偽りの投降と見抜き、降伏の受け入れに反対、むしろこの機会に直義を討伐して北朝側の戦力を削減させるべきと主張する。
これに対し、二条師基と北畠親房は受け入れに賛成し、直義派との合同により南北朝間の形勢逆転を図ることを主張した。
その結果、後村上天皇は、直義の降伏を受け入れ、12月13日、勅免の宣旨が下された。
この決定を受けて、南朝側諸将は足利直義軍に合流し、翌年1月、足利尊氏・高師直軍と交戦し、これを撃ち破る。
しかし、直義は京を制圧するや直ちに南朝から離反する。
尊氏と直義は和睦をするが、両者間の火種は燻り続け、尊氏方、直義方、そして南朝の三つ巴状態に戻った。

次に南朝に降伏を申し入れてきたのは足利尊氏であった。
南朝側首脳陣は、直義の裏切りを教訓にして今回は慎重にならざるを得なかった。
しかし、一時的な偽降を逆手にとって、尊氏が直義を討伐するため京を離れている間に、京都を奪還し北朝を吸収し解消してしまう計画を立てたうえで、10月24日付で尊氏に対し勅免および直義追討の綸旨を下した。
尊氏が京を発った後、北朝の崇光天皇を廃位し、関白二条良基の職務を停止し、親南朝派の洞院公賢を左大臣に任じ京における公事を委ねた。
そして、12月28日に二条師基は関白に任じられた。
翌1352年(正平7年 / 観応3年)閏2月、関東と畿内において足利軍と交戦を開始、19日に後村上天皇が男山(石清水八幡宮)まで行幸し、そこに留まった。

足利方の反攻が厳しくなり、5月11日に男山が陥落、後村上天皇は河内国へ撤退するが、追撃も激しく撤退戦において官軍は多くの犠牲を出した。
その中には、二条師基の次男、教忠も含まれていた。

大塔若宮の反乱

二条師基は、1359年(正平14年 / 延文4年)6月17日に出家し、法名を光明台院と号した。
したがって、遅くともこのときまでには、関白職を長男、教基に譲っていたはずであるが、その時期は未詳である。
しかし、出家はしたが、隠居をしたわけではなかった。

1360年(正平15年 / 延文5年)4月25日、大塔宮護良親王の子で南朝側であった興良親王(大塔若宮)が、赤松氏範らと共に、突然、南朝の本拠である賀名生行宮を襲撃した。
翌日、二条師基は大将軍に任ぜられ、反撃を開始、3日後に鎮圧した。
興良親王は逃してしまったが、反乱軍のほとんどの兵は討ち取り、または、捕らえることに成功した。

最後の参陣
1361年(正平16年 / 康安元年)12月、細川清氏・楠木正儀らと共に、京都の奪還作戦に参加する。
ただし、『神護寺交衆任日次第』に「同(1361年12月)八日、宮方軍勢二条関白、帥大納言師基御息入京」とあることから、参戦していたのは師基自身ではなく長男の教基とも考えられている。

死去

『大乗院日記目録』によると、1365年(正平20年 / 貞治4年)1月26日没、享年66であった。

妻子

妻は不詳。
子は、二条教基と教忠。
長慶天皇・後亀山天皇の生母、嘉喜門院の実父ないし養父との説もある。

官位履歴

官位と位階の履歴は以下の通り。
年齢は数え年、月日は旧暦。

[English Translation]