五条頼元 (GOJO Yorimoto)
五条 頼元(ごじょう よりもと、正応3年(1290年) - 正平 (日本)22年(1367年)5月)は、南北朝時代 (日本)の公家。
南朝 (日本)の皇子征西将軍懐良親王に付き従い、九州における一時の南朝勢力隆盛を助けた。
生涯
大外記清原良枝の二男として生まれた。
自身も事務方の公家として経験を積み、建武の新政にあたっては大外記に任じられた。
その際に、実務能力を買われたらしく、雑訴決断所、記録所、恩賞方など、新政の主要な機関の職員を歴任し、勘解由使にまで進んだ。
建武 (日本)3年(1336年)に新政が終止符を打たれると、そのまま北朝 (日本)の光厳天皇方にとどまり、文殿の職員となっている。
しかし、建武5年(1338年)9月には、懐良親王に少納言の官位で随行して吉野を発している。
この間に南朝方に転向したと推測される。
懐良親王は当時10歳に満たなかったと思われ、九州およびその途次の瀬戸内の各武士への令旨は、ほとんどが頼元によるものと思われる。
また、これら武士勢力の懐柔だけでなく、懐良親王の征西将軍宮としての教育なども頼元の監督下で行われている。
他の後醍醐皇子の地方下向には、多くの場合武士や南朝を代表する公家が随行していたにも関わらず、懐良親王の下向では頼元をはじめ、地位の低い実務官僚が随行していた。
その武力動員にはまったく令旨の力に頼るしかなかった中、頼元は興国3年(1342年)の九州上陸以降も精力的に令旨の発給を続けた。
すべてが頼元を奉者とするものばかりではないが、今日残っているものだけでも150通を超えるとされる令旨の最多の奉者であり、懐良親王の九州制圧時代を現出した功労者と言える。
正平16年(1361年)には懐良親王はついに九州の中心である大宰府に入り、北朝勢力を北九州の一角に押し込め、ほぼ九州を統治下に置くことに成功した。
結局、頼元の生存中はこの状態が続いた。
正平20年(1365年)ごろに引退し、その2年後に死去した時点でも、懐良親王の九州政権は健在であった。
この間、倭寇の取締りを期待する明との間で親密な外交関係を構築し、懐良親王を日本国王と認めさせるに至っている。