京極マリア (KYOGOKU Maria)
京極 マリア(きょうごく まりあ、天文 (元号)11年(1542年)頃 - 元和 (日本)4年7月1日 (旧暦)(1618年8月20日))は戦国時代 (日本)の女性。
実名は不詳。
当時は夫婦別姓なので本来は京極姓で呼ぶのは適切ではない。
経歴
天文 (元号)11年(1542年)頃、近江国の支配権を京極氏より奪った浅井氏の当主浅井久政の次女、浅井長政の姉として小谷城で生まれる。
京極高吉に嫁ぎ、子は永禄6年(1563年)に小谷城で京極高次、元亀3年(1572年)に京極高知、時期は定かでないが京極竜子、他に二人の娘(氏家行広室、朽木宣綱室)を設ける。
天正元年(1573年)より前に、夫は嫡男の高次を織田信長に人質として送り上平寺に隠居しており、そこで共に暮らしたと考えられる。
天正9年(1581年)、夫と共に安土城城下でグネッキ・ソルディ・オルガンティノ神父より洗礼を受け、洗礼名としてドンナ・マリアを授かるが、その数日後に夫は死去する。
天正15年(1587年)にバテレン追放令が豊臣秀吉により発せられた後も信仰を貫き、秀吉の側室となった竜子を除く四人の子が洗礼を受けたとされる。
京都、大坂での布教活動を経て、関ヶ原の戦いの後には次男の高知が領した丹後国泉源寺村(京都府舞鶴市)に移り住み、高知の庇護の下此御堂という建物を中心に布教活動を行い、更なる信仰を深めたという。
泉源寺村は丹後の最東端に位置し丹後若狭の国境に近いことから選んだとされ、長男が領する若狭の小浜にも度々足を運んだともいわれている。
地元の民には「泉源寺様」と呼び慕われ、元和 (日本)4年(1618年)7月1日に亡くなった。
法名は養福院殿法山寿慶大禅定尼と伝わる。