京極政経 (KYOGOKU Masatsune)

京極 政経(きょうごく まさつね、生年不詳-1502年又は1508年)は守護大名である京極氏の室町時代後期の当主。
京極 政高(きょうごくまさたか)とも名乗った。
本姓は源氏。
家系は宇多天皇を祖とする宇多源氏の流れで佐々木氏傍流の京極氏の血をひく。
北近江、出雲、飛騨三ヶ国の守護大名・京極持清の三男として生まれる。

1467年(応仁元年)に応仁の乱が起こると、父の持清は、細川勝元の率いる東軍に属して京で戦う。
翌年からは西軍に属した六角高頼と近江で戦うが、高頼との戦いの中1470年(文明 (日本)2年)に病死する。

長兄の京極勝秀と次兄の京極政光は既に亡くなっており、勝秀の嫡子と考えられている孫童子丸が家督を継ぐが、1471年(文明3年)に死去する。
その跡目を巡って勝秀の子とも弟ともされる京極高清との間で争い、その勝利により出雲国、隠岐国、飛騨国の守護へと任ぜられる。

その後、近江守護職も任ぜられ、1475年(文明7年)10月には幕命を受け、延暦寺の僧兵と共に観音寺城下で六角高頼と戦い大勝する。
しかし、11月になると西軍に属した土岐成頼、斎藤妙椿らの軍が高頼軍へと加わり、最後は敗れる。
1477年(文明9年)に応仁の乱が終わると、翌年には近江守護を解かれ、六角高頼が再び任ぜられた。

1482年(文明14年)に室町幕府から、出雲と隠岐において父の代から免除されていた税を要求されるが、守護代の尼子経久がこれに従わず、政経は翌々年に幕命を得て出雲の豪族に経久を追放させ、塩治掃部介を新たな守護代として月山富田城に派遣する。
しかし、1486年(文明18年)に月山富田城は経久の奇襲により奪い返されてしまったとされる。

1487年(長享元年)8月には征夷大将軍足利義尚みずからによる六角高頼の征伐軍に加わるが、翌々年に義尚は陣中で病死し征伐は中止される。
この間、1488年(長享2年)8月に政経は高清と近江国松尾で戦うが敗れ、家臣の多賀経家と共に伊勢国梅津へ逃れた。

佐々木文書では1508年(永正五年)に吉童子丸へと家督を譲ったとされているが、西讃府史では1502年(文亀2年)10月23日 (旧暦)に50歳で亡くなったとされている。
晩年は尼子経久と和解し出雲に在ったとされ、京極氏代々の事跡を集めた佐々木文書はここで尼子氏に移ったとされる。

生前は従五位下大膳大夫、御相伴衆に任ぜられていた。
子には京極材宗があり、また家督を譲った吉童子丸は政経の孫と考えられているが、その行方は分かっておらず、出雲は戦国大名となる尼子氏の領国となる。

[English Translation]