京極竜子 (KYOGOKU Tatsuko)

京極竜子(きょうごくたつこ、? - 1634年10月22日(寛永11年9月1日 (旧暦)))は戦国時代 (日本)から江戸時代初期にかけての女性。
はじめ武田元明の正室、のち豊臣秀吉の側室となり松の丸殿、京極殿、西の丸殿と呼ばれた。

父は京極高吉、母は浅井久政の娘(京極マリア)。
兄(弟という説もある)に京極高次。
浅井長政は叔父、淀殿(茶々)(秀吉側室)、常高院(京極高次正室)、於江与(徳川秀忠正室)は従姉妹にあたる。

浅井氏の主筋に当たる京極氏の出身だったため、同じく秀吉の側室である淀殿よりも血筋上では名門に連なる。

初め若狭守護・武田元明に嫁ぎ、二男を生む。
しかし、高次と夫の元明は本能寺の変後、明智光秀の味方につき、元明は秀吉の軍に討たれてしまう。
竜子は捕らえられた後、秀吉の側室となった。
小田原城や名護屋城に秀吉が伴っていったり、醍醐の花見でも三番目の輿を使ったりなど、かなり秀吉お気に入りの側室だったようである。
肖像画より大変な美女であったと伝わる。

秀吉の死後、高次の住む大津城に身を寄せた。
関ヶ原の合戦後出家し、西洞院に居を構えた。
その後も竜子は京から度々大坂へ贈り物をしたり、豊臣秀頼に会いにきていた(『慈照院文書』)。
秀吉没後も豊臣家の一員として高台院・淀殿と親交をもち続けていた様子が『舜旧記』からも分かる。

大坂の役の後は、淀殿の侍女(菊)を保護し、また六条河原で処刑された秀頼の息子・豊臣国松の遺体を引き取り、誓願寺に埋葬した。
寛永11年9月1日に死去。
法名は寿芳院殿月晃盛久。

京極高次の出世は、この竜子と、彼の正室・初の縁による所が大きいと思われる。

[English Translation]