今井兼平 (IMAI Kanehira)

今井 兼平(いまい かねひら、仁平2年(1152年) - 元暦元年1月20日 (旧暦)(1184年3月4日))は平安時代末期の武将。
通称・四郎。
よって今井四郎兼平ともいう。
正式な名のりは中原兼平(なかはら の かねひら)。
父は中原兼遠、兄弟に樋口兼光、巴御前、落合兼行がいる。
義仲四天王の一人。

生涯

源義仲とは乳兄弟でもあり、最後まで義仲と共に戦い、『平家物語』の「木曾殿最期」の段の義仲と兼平の最期は、悲壮美に満ちている。
また、この場面の兼平の矛盾した言い方や、「弓矢取りは、年頃日頃如何なる高名候へども、最後に不覚しぬれば、永き瑕(きず)にて候なり。」の武士たる心構えを伝える言に、その情況に応じての、兼平の義仲への苦しいいたわりの気持ち、美しい主従の絆が書かれている。

「日頃は何とも覚えぬ鎧が、今日は重うなったるぞや」と言う義仲に対し、次のように述べた。
「それは御方(みかた)に続く勢が候はねば、臆病でこそさは思し召し候らめ。」
「兼平一騎をば、余の武者千騎と思し召し候べし。」
「ここに射残したる矢七つ八つ候へば、暫く防矢(ふせぎや)仕り候はん。」
「あれに見え候は、粟津の松原と申し候。」
「君はあの松の中へ入らせ給ひて、静に御自害候へ。」
義仲が「所々で討たれんより、一所でこそ討死もせめ」と言うと、次のように述べた。
「弓矢取りは、年頃日頃如何なる高名候へども、最後に不覚しぬれば、永き瑕(きず)にて候なり。」
「御身も労(つか)れさせ給ひ候ひぬ。」
「御馬も弱って候。」
「云ふ甲斐なき人の郎等に組み落とされて、討たれさせ給ひ候ひなば、さしも日本国に鬼神と聞こえさせ給ひつる木曾殿をば、某が郎等の手に懸けて、討ち奉ったりなんぞ申されん事、口惜しかるべし。」
「唯理を枉げて、あの松の中に入らせ給へ。」
義仲が討たれると、次のように言った。
「今は誰をかかばはんとて、軍をばすべき。」
「これ見給へ、東国の殿ばら、日本一の剛の者の自害する手本よ。」
そして太刀の先を口の中に含み、馬上から飛び降り、太刀に貫かれ自害した。

(現代語簡訳:戦前は義仲に「武士らしく強気になれ」と助言をし、戦中は死を共にしようとする義仲に「疲れているのだから潔く自害しなさい」と冷静にアドバイスをし、義仲が自害する時間稼ぎをした。)
(義仲が討ち取られたと知った直後、「東国の方々、これが日本一の強者の自害する手本だ」と言った。)

伝承墓所:長野市川中島に兼平塚。
また、滋賀県大津市晴嵐にも墓所がある。
奉斎神社:長野市川中島鎮座の今井神社や松本市今井 (松本市)鎮座の今井神社の主祭神として祀る。
また群馬県渋川市北橘町の木曾三社神社などがある。

[English Translation]