今井正 (IMAI Tadashi)
今井 正(いまい ただし、1912年1月8日 - 1991年11月22日)は、日本の昭和期の映画監督。
社会派映画を主に手掛け、戦後日本映画の左翼ヒューマニズムを代表する代表する名匠である。
来歴・人物
東京都渋谷に住職の子として生まれる。
芝中学校・高等学校、水戸高等学校 (旧制) 時代よりマルクス主義と映画に傾倒していた。
1935年、東京大学を中退し、J・Oスタジオ(現・東宝)企画部に入社する。
並木鏡太郎、中川信夫などの助監督をつとめた。
当時の同僚に市川崑がいた。
J・Oが東宝と合併した1937年、今井は入社2年目にして早くも監督昇進に指名され、異例のスピード出世となった。
しかし、処女作は出演俳優が兵役に取られるなどして完成が大幅に遅れ、やっと公開されたのが2年後の1939年、『沼津兵学校映画』が監督デビュー作となった。
本作は地味な作風ながらも、今井の手堅い演出の甲斐もあって秀作との評価を得る。
しかし、第二次世界大戦中は、自らの信念とは別に数々の戦意高揚映画を製作。
1943年、朝鮮を舞台に日本の武装警官隊と抗日ゲリラとの戦いを描いたプロバガンダ映画『望楼の決死隊』が、西部劇さながらのアクション・シーンを取り入れ、はじめて今井の名が注目を集めたのは皮肉なことに植民地支配を正当化した軍国主義映画だった。
戦後は、一転して戦後民主主義啓蒙映画を手掛けた。
1946年、今井の戦後第1回作品で戦時中の財閥の腐敗を描いた『民衆の敵 (1946年の映画)』で第1回毎日映画コンクールの監督賞を受賞。
その一方で榎本健一と入江たか子主演の人情喜劇『人生とんぼ返り』のような作品も手掛けた。
1949年、石坂洋次郎原作で民主主義を謳歌した青春映画『青い山脈 (映画)』前後篇を監督。
同名の主題歌も大ヒットしたことで映画も大ヒットを記録し、キネマ旬報ベストテンの第2位に選ばれた。
今井も第1級の監督として目される。
続いて1950年、『また逢う日まで (1950年の映画)』で戦争によって引き裂かれた恋人の悲劇を描き、今度はベストテン第1位に輝いた。
また劇中、主演の岡田英次と久我美子のガラス窓越しのキスシーンが当時、大きな話題になり、日本映画史に輝く名場面となった。
またこの頃から、今井も自由に作品を作りたいと感じた。
『青い山脈』の成功で手に入れた資金をもとに、東宝から独立してフリーの監督として民主主義の社会の到来を高らかに謳いあげる作品を次々と発表した。
しかし、東宝争議で中心的人物として動いた今井を映画会社5社から締め出し(いわゆるレッド・パージ)、生計を立てる為に一時期、屑物の仕切り屋を開業していた。
しかし、今井同様に解雇された左翼系映画人たちが次々と独立プロを立ち上げる運動が活発となった。
今井はその1番手として映画制作を再開する。
山本薩夫、亀井文夫らと独立プロ・新星映画社を創立した今井は1951年、前進座と組んで、日雇い労働者たちの生活を描いた『どっこい生きている』を発表した。
リアリズム映画の佳作との評価を得る。
続いて1952年、山村の中学校を舞台にした『山びこ学校』を監督。
1953年、当時は新興まもない弱小スタジオだった東映に招かれて、沖縄戦の悲劇を描いた『ひめゆりの塔 (1953年の映画)』を製作した。
今井自身は出来に満足はしなかったものの、本作は大ヒットを記録して、東映の基礎固めに一躍買った。
その後、再び独立プロに戻り、文学座と組んだ樋口一葉原作のオムニバス映画『にごりえ』(ベストテン第1位)、高崎市民オーケストラ(現・群馬交響楽団)の草創期を描いた『ここに泉あり』とヒューマニズム映画の傑作を発表する。
1956年には、日本における裁判批判映画の最初の作品で、八海事件の裁判で弁護を担当した正木ひろしの手記の映画化『真昼の暗黒』を発表。
徹底とした調査のもと、冤罪事件を告発した本作は、大きな社会的反響を呼び、独立プロ運動時代の最高傑作のひとつと賞賛される。
東映においても社会派映画を次々と製作、1957年、霞ヶ浦を舞台に農村の貧困を描いた、今井の初のカラー作品『米 (映画)』や、原爆症の少女と不良少年の恋を描く『純愛物語』、1961年、李承晩ラインをめぐる日韓関係の悪化を、在日朝鮮人の若い漁師を通して描く『あれが港の灯だ』など話題を呼んだ。
1959年、人種差別批判をテーマにした『キクとイサム』は、黒人との混血の姉弟と、彼らを引き取って育てる老婆の交流を描いた。
本作は今井の代表作となった。
今井は共産党員ながらもイデオロギーを尖鋭に推したてることはせず、戦争や差別や貧困など社会的テーマを掘り下げ、それに翻弄される弱者の姿を同情を込めて美しく描いた。
これらの作品を発表し続けたことで、高い評価を得た。
1963年、封建社会の残酷さを描く『武士道残酷物語』で、ベルリン映画祭グランプリを受賞。
同映画祭でグランプリを受賞するのは、39年後、宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』まで待たなくてはならなかった。
1969年、ほるぷ映画を創立し、社長に就任。
しかし、1971年、『婉という女』を完成後、資金難からほるぷ映画は解散した。
1972年、古巣の東宝に招かれて反戦映画『海軍特別少年兵』を発表する。
イタリア映画におけるネオレアリズモの影響を受けた映画監督の一人でもあり、厳しい演技指導や映像へのこだわりでも知られた。
例えば常連パイプレーヤーであった潮健児は自伝で、『米』のラストシーンの収録に、船の帆の貼り具合や船の位置、果ては雲の位置までを気にするあまり1週間かかったなどのエピソードを紹介している。
日本共産党員。
左翼作家でありながら娯楽色豊かなヒット作を連打し、党派を超えた巨匠として日本映画に君臨した。
この点で山本薩夫と双璧だ(戦中に戦意高揚映画の秀作を撮っているところまで相似している)。
しかし、最後まで大手からの監督依頼が絶えなかった山本に比べると若干晩年は不遇であった。
『橋のない川』第二部を巡って部落解放同盟から糾弾を受けたことも知られている。
受賞歴
第4回日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞特別賞(1991年)『戦争と青春』