仙石秀久 (SENGOKU Hidehisa)

仙石 秀久(せんごく ひでひさ)は、戦国時代 (日本)から江戸時代前期にかけての武将・大名。
信濃国小諸藩の初代藩主。
出石藩仙石家初代。

豊臣秀吉が織田信長に仕えていた頃からの最古参の家臣である。
秀吉の家臣団では最も早く大名に出世した。

戸次川の戦いで独断専行により、島津軍に大敗を喫したことで有名である。

戸次川の戦いでの大失態を小田原征伐で見事に挽回した。
大名に返り咲くことができた数少ない武将である。

石川五右衛門を捕らえたともいわれている。

美濃時代

天文21年(1552年)1月26日、美濃の豪族・仙石久盛の四男として美濃で生まれる。
仙石氏は清和源氏である土岐氏の支流を自称するが、正しくは不明である。

はじめ越前国の豪族・萩原伊予守国満の養子となる。
しかし相次ぐ兄の死により呼び戻されて、仙石氏の家督を継いだ。
そして美濃斉藤氏に仕えたが、斎藤氏が信長によって滅ぼされると、信長の下で台頭していた豊臣秀吉の家臣として仕える。

大名への道

元亀元年(1570年)、姉川の戦いで浅井方の武将山崎新平を討ち取り、天正2年(1574年)には、秀吉から近江国野洲郡に1000石を与えられた。
(資料では「浅井方の兵」とあり、実際に部将クラスの人物であったかは不明)
天正6年(1578年)にはさらに4000石を加増される。

やがて秀吉が信長から中国征伐を命じられると、秀久はそれに従軍して戦功を挙げる。
天正7年(1579年)、秀吉から茶臼山城を任せられ、赤松峠を越える播磨道の警護に当たった。
また、この時期には秀吉が三木から幾度も通った湯山街道や有馬温泉を統括する湯山奉行にも任じられている。
さらに天正9年(1581年)には黒田孝高らと淡路島に渡って岩屋・由良城を陥落させた。
天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で死去、秀吉の中国大返しと山崎の戦いが始まった。
秀久は淡路で明智光秀方に与した豪族達を討伐する任にあたり、淡路平定に貢献した。
その後、秀吉は織田氏筆頭家老の柴田勝家と賤ヶ岳の戦いで対立。
秀久も、羽柴秀勝とともに十二番隊の将として参戦する予定であった。
しかし長宗我部元親と共闘した菅達長に洲本城が占拠されたという報を聞きつけた秀吉は、秀久に四国勢の抑えとして急遽近江から淡路国に出向く命を与えた。
これにより、柴田側に与した四国の長宗我部元親と対陣することとなる。

淡路入りした秀久は菅達長を破り、洲本城を奪還。
その後、小豆島を占拠し、十河存保の救援するために四国へ渡る。
手始めに高松頼邑が守る喜岡城を攻めたが、落とせずに撤退。
ついで讃岐国引田に上陸、引田城に入城した。
天正11年4月21日、長宗我部勢の香川信景らの部隊が押し寄せるも、秀久は伏兵で迎えうち、緒戦は優勢となる。
しかし数で優位な香川隊が態勢を立て直すと叙々に巻き返された。
次いで駆けつけた長宗我部勢の援軍の攻撃により、引田城へ撤退。
翌22日に引田城は長宗我部軍の総攻撃を受け落城し、秀久は敗走する。
(一説では、この戦いの最中に仙石軍は幟を取られるという失態を見せたといわれている)。
敗戦後は淡路と小豆島の守りを固め、瀬戸内の制海権維持に務めた。

天正11年(1583年)に賤ヶ岳の戦いが終結すると、秀久はこれまでの功を評価され、淡路国洲本城主5万石の大名となる。
天正8年(1580年)との説もあるが、信長が淡路に平定軍として秀吉を派遣したのは天正9年(1581年)といわれているため、これは誤りである可能性が高い。
淡路受領後は淡路水軍、小西行長、石井与次兵衛、梶原弥助の水軍を統括した。
紀州討伐では湯川一族討伐で功を挙げた。
第二次四国征伐の折には喜岡城を落とし、木津城攻めでは城の要を抑え、城内の水源を絶つなど活躍した。
そして、天正13年(1585年)、四国征伐の功績により、秀吉から讃岐国高松10万石を与えられた。

改易

天正14年(1586年)、秀吉の命令で九州征伐が始まると、秀久は十河存保や長宗我部元親・長宗我部信親らの軍監として九州に渡海し、島津軍と対峙する。
ここで秀久は功に焦って無謀な作戦を立ててしまう。
そしてこの作戦により行なわれた戸次川の戦いで島津家久率いる島津軍に豊臣軍は大敗した。
その結果、元親の嫡男・長宗我部信親や十河存保といった有力武将の多くが戦死してしまう。
さらに、秀久自らは諸将の軍を差し置いて小倉城に撤退。
その後は讃岐へ逃げ帰るという醜態を見せた。
これらの行状に激怒した秀吉は、秀久の所領を没収して、高野山へ追放した。

復帰

その後、徳川家康の斡旋により、天正18年(1590年)の小田原征伐の時には陣借りという形で秀吉の軍に加わった。
このとき秀久は糟尾の兜と白練りに日の丸を付けた陣羽織を着て、紺地に無の字を白く出した馬印を眞先に押し立て、手勢を率いて諸軍の先に進んだといわれている。
さらに、鈴を陣羽織一面に縫いつけるという際立つ格好をして合戦に参加。
自ら十文字の槍を振るって力戦し、伊豆山中城攻めでは先陣を務め、小田原城早川口攻めでは虎口(城郭や陣営などの最も要所にある出入り口)の一つを占拠するという抜群の武功を挙げた。

箱根にある地名「仙石原」は、彼の奮闘の地であったことを記念して付けられたものである。
この功績により、秀久は信濃国小諸城に5万石を得て、大名として復帰した。
文禄元年(1592年)、秀吉の命令で朝鮮出兵が始まると、肥前国名護屋城の築城工事で功績を挙げた。
それにより従五位下・越前守に叙任された。

文禄3年(1594年)には秀吉の命令で始まった伏見城築城工事においても功績を挙げたため、7000石を加増され、5万7000石の大名となった。

江戸時代

慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去すると、家康と懇意であった秀久は早くから徳川氏に接近した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでも徳川方として参戦し、家康から北国筋の鎮撫を命じられている。
そして、徳川秀忠軍に従軍して上田城攻めに参加したが、城方の真田昌幸の善戦により秀忠軍は足止めを食った。
秀忠は関ヶ原本戦に遅参してしまう。
ここで秀久は秀忠の遅参について激怒している家康への謝罪に努めた。
そのため、秀忠が征夷大将軍就任後、特に重用されるようになる。
慶長14年(1609年)には秀忠の将軍宣下御拝賀に随行し、同16年(1611年)正月2日の御謡初めの際には着座している。

戦後は所領を安堵され、信濃小諸藩の初代藩主となった。
秀久の治世においては農民達に過酷な課役を与えた事から佐久郡では一郡逃散という失態を犯す事となる。
一方で、笠取垰、小諸城及び城下町を現在のようにしたのは秀久の功績でもある。
また、街道の伝馬制度や宿場街の整備など多様な治績を残している。
慶長19年(1614年)、江戸から小諸へ帰る途中に発病し、武州鴻巣にて5月6日に死去。
享年63。
後を三男・忠政が継いだ。

子孫

仙石氏はその後、小諸藩から信濃上田藩、さらに但馬国出石藩に移封された。
江戸時代後期に仙石騒動という御家騒動が起こり、家名の存続も危ぶまれたこともあった。
しかし、減封だけで済み、明治時代まで存続した。

初期の仙石氏の江戸城内での詰所は、譜代城主大名として帝鑑の間であったという。
その後、四代当主仙石政俊以降は外様の小身の席である柳の間に替えられた。
後代々同じという。

人物・逸話

織田家に家臣入りした際、織田信長が秀久の勇壮な相貌を気に入り、黄金一錠を与えたといわれている。

紀州征伐の際、根来攻めに参加した秀久は山林に放置されていた曰く付きの「安珍・清姫伝説」を戦利品とばかりに拾った。
陣鐘(合戦の時に合図に使う鐘)にしようと京都まで運ぼうとした。
しかし、行軍の途中に京洛の手前で重い鐘を乗せた台車が坂を登りきれなかったため、やむなく鐘を土中に埋めたとも、そのまま京都に持ち帰り、安珍清姫の怨念解脱のために経力第一の法華経を頼って妙満寺に鐘を納めたともいわれている。

戸次川の戦いのとき、最大の責任者でありながら真っ先に四国に逃げ帰った秀久のことを、「豊薩軍記」において、「仙石は四国を指して逃げにけり、三国一の臆病者」とまで罵られた。

またこのときの仙石軍の様子をルイス・フロイスが『日本史』に書き残している。
「豊後国に跳梁している最悪の海賊や盗賊は仙石の家来や兵士に他ならない。」
「恥とか慈悲と言った人間的感情を持ち合わせていない輩であり、できる限り(略奪して)盗み取ること以外目がなかった」と酷評している。

小田原征伐の折に陣羽織一面に鈴を縫い付けて戦場を駆けたことから、「鈴鳴り武者」の異名をとった。
また、その時に秀吉から忠勇を賞されて、秀吉が使っていた金の団扇を手づから下賜されたといわれている。

伏見城にて石川五右衛門を捕縛したとの伝説がある。
(公の捕縛者は京都所司代であった前田玄以であるが、「一色軍記」では仙石秀久が捕縛したとの記述が残されている)
そのため仙石秀久は講談の世界で怪力無双の豪傑として登場する。

関ヶ原では徳川秀忠に従い、上田城攻めに従軍した。
その際、真田父子に苦戦する秀忠に以下のように進言を行った。
「自分を人質に送り先へ進軍していただきたい。
自分が死んでも東軍が勝利すれば満足である。
秀忠は大いに喜んだが、「秀久は譜代の将でないため真田昌幸は納得せぬであろう」と言い実行はされなかったという。

関ヶ原の後、秀久は徳川秀忠付という名誉職を賜ることになる。
また、秀久が江戸に参府する時は道中の妻子同伴が許されており、必ず幕府からの上使が板橋宿まで迎えに来ていたという。
これらは豊臣恩顧の大名達の中で、尚且つ一介の外様大名としては過分な待遇であり、徳川家康・秀忠から相当の信頼を受けていた人物である事がうかがえる。

秀久は秀忠とも懇意な間柄であり、後に秀忠が将軍宣下を受けた際には同行して参内を果たしている。
また、江戸の仙石秀久邸に将軍秀忠が訪れるエピソードが残されている。

小諸藩主時代には、早くから殖産興業に目を向け、蕎麦を名産品にしようと取り組んでいた。
また蕎麦切りを媒体にして領民とのコミュニケーションをはかったといわれている。

家名存続のために苛烈な一面があり、関ヶ原の戦いの時、西軍に与した嫡男の秀範を廃嫡の上、勘当している。

常山紀談で仙石権兵衛秀久は豊臣秀吉が使っていた忍びとして登場している。
商人に化けて九州に潜入、地理すべてを絵に描き、攻め入る地点を書き送ったなどと記されている。

仙石氏の家臣

四宮光利
太郎左衛門。
四宮氏は信濃から讃岐に移住し、引田城主として寒川氏に仕えた。
兄光武は三好氏に攻められ落城。
光利は豊臣家に臣従し、仙石秀久の家臣となる。
天正年間に乙井城主となり、諏訪神社を建立している。

小川伊勢守
仙石秀久に仕える。
天正11年、讃岐に渡り、四国征伐の橋頭堡として法勲寺城を築く。
四国征伐後、讃岐に計350石を賜る。

広田藤吾
仙石秀久に仕え、天正9年11月、淡路州本城攻めに功があった。

森権平
引田の戦いでは仙石軍の殿を努め伊座まで退くも、稲吉新蔵人に討ち取られた。
享年18。
死後、地元の人々から足の神様として祀られている。

後藤基次
黒田家からの追放後、一時仙石秀久に仕える。
天正13年(1583年)には讃岐高松城攻めで初陣を遂げた(諸説あり)。
後に黒田長政から許しを得たので黒田家に帰参した。

庄林一心
加藤家三傑の一人。
元荒木家の家臣で、荒木家没落後に仙石秀久に仕えた。
後に仙石秀久が改易処分を受けたため、加藤清正の家臣になった。

羽床資吉
羽床資載の次男。
弥三郎。
天正7年、羽床城開城時に長宗我部家への人質となる。
天正10年、父資載の没後、羽床氏当主となる。
四国征伐後、仙石秀久に仕える。
天正14年10月、戸次川合戦で討死。

太平国祐
獅子ノ鼻城主。
母は川之江轟城主大西長清の娘。
天正6年に長宗我部家に敗れ、城を落ち延びる。
後に仙石秀久に仕え、侍大将となる。
戸次川合戦敗北により秀久が失脚すると、かつての家臣の下に身を寄せた。
慶長8年7月4日没, 享年66。
一説に没落を悲しんでの入水自殺といわれている。

太平国常
太平国祐の長男。
天正14年、戸次川合戦で討死。

[English Translation]