仙石秀範 (SENGOKU Hidenori)

仙石 秀範(せんごく ひでのり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。
仙石秀久の嫡男。

仙石秀久の次男として生まれる。
慶長4年(1599年)、豊臣家から3000石 (単位)を与えられて従五位下、豊前国守に叙任された。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与したため、戦後、東軍に与した父から廃嫡された上に勘当されて浪人となった。
出家して京都で寺子屋の講師を務めていたという。

慶長19年(1614年)に大坂の陣が始まると、大坂城に入って豊臣方として戦った。
このとき、豊臣家から大名衆として3万石前後の所領を与えられている。
しかし翌年の夏の陣で豊臣氏の敗北が決定的となると、丹波国に逃亡した。
その後の秀範の行方は不明である。
夏の陣で討死したともいわれている。

ただし、10歳になる息子長太郎は伯耆国で捕らえられ、夏の陣後の閏6月22日に六条河原で乳母の子供と共に斬られ、晒し首にされた。
ほかに徳という女子がおり、叔父の仙石忠政に預けられ、寛永12年に没した。

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