伊吉博徳 (IKI no Hakatoko)
伊吉 博徳(いき の はかとこ、生没年は不詳)は、飛鳥時代から奈良時代の人物である。
姓の表記は伊岐、壱伎などとも。
斉明天皇から天智天皇にかけての豪族・外交官。
カバネは連(むらじ)。
しばしば「伊吉連博徳」と表記される。
壱岐氏の一族とされ、壬申の乱において近江朝廷(弘文天皇)側で活躍した壱伎韓国は同族と思われる。
斉明天皇五年から七年にかけて、遣唐使に随行する。
天智天皇三年(664年)に、唐使の郭務悰を大宰府に応接する。
天智天皇六年(667年)に、唐使の司馬法聡の送使となる。
朱鳥元年(686年)に、大津皇子の変に連座するが、罰を許された。
持統天皇八年(694年)に、遣新羅使に任命される。
文武天皇四年(700年)に、冠位・官位制度の変遷冠位四十八階(じきこうし)に昇進して大宝律令の編纂者に任命される。
大宝 (日本)三年(703年)に、その功労により、田十町・封五十戸を賜る。
『日本書紀』には、彼の記録から引用されている箇所がある。
『伊吉博徳書』
『伊吉博徳書』(いきのはかとこのしょ)は、伊吉連博徳が記した記録で、成立年代は、天武天皇の時代の十二年前後、または、持統天皇四年から九年とする見方がある。
『日本書紀』において、白雉五年二月の条(654年)、斉明天皇五年七月の条(659年)、同六年七月の条(660年)、同七年五月の条(661年)に引用されている。
日本の古代を知る数少ない記録であり、貴重である。