伊東マンショ (Mancio Ito)

伊東 マンショ(いとう まんしょ、Mancio, 満所とも、永禄12年(1569年)頃 - 慶長17年10月21日 (旧暦)(1612年11月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期のキリシタンで、天正遣欧少年使節の正使。
イエズス会員でカトリック司祭。
マンショは洗礼名、本名は祐益。
伊東祐青の子。
母は日向国主・伊東義祐の娘(通称「町の上」)。
大友義鎮の縁者。

生涯

伊東マンショは日向国主伊東義祐の孫として生まれた。
伊東氏が島津氏の攻撃を受け、伊東氏の支城の綾城が落城した際、当時8歳だった伊東マンショは家臣の田中國廣に背負われ豊後に落ち延びる。
豊後に暮らしていたときにキリスト教と出会い、その縁で司祭を志して有馬のセミナリヨに入った。
巡察師として日本を訪れたアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(ヴァリニャーニ)はキリシタン大名であった大村純忠と知り合い、財政難に陥っていた日本の布教事業を立て直すため、また次代を担う邦人司祭育成のため、キリシタン大名の名代となる使節をローマに派遣しようと考えた。

そこでヴァリニャーノに白羽の矢をたてられたのが、セミナリヨで学んでいた四人の少年たちであった。
伊東マンショは大友宗麟の名代として選ばれた。
事実、彼は「大友宗麟の姪(一条房基子女)の夫である伊東義益の妹の子」という遠縁の関係にあった。
本当は義益の息子で宗麟と血縁関係にある伊東祐勝が派遣される予定であったが、当時祐勝は安土町にいて出発に間にあわないため、マンショが代役となったという。
その選考基準は容姿端麗であり、長旅に耐える健康を備え、語学や勉学においてすぐれていることであった。

(彼らのヨーロッパ旅行に関しては天正遣欧少年使節の項を参考。)

天正18年(1590年)、日本に戻ってきた彼らは翌年、聚楽第で豊臣秀吉と謁見した。
秀吉は彼らを気に入り、マンショには特に強く仕官を勧めたが、司祭になることを決めていたマンショはそれを断った。
その後、司祭になる勉強を続けるべく天草にあったノビシャドに入り、コレジオに進んで勉学を続けた。
文禄2年(1593年)7月25日、他の三人と共にイエズス会に入会。

慶長6年(1601年)には神学の高等課程を学ぶため、マカオのコレジオに移った(この時点で千々石ミゲルは退会)。
慶長13年(1608年)、伊東マンショ、原マルティノ、中浦ジュリアンはそろって司祭に叙階された。

マンショは小倉を拠点に活動していたが、慶長16年(1611年)に領主細川忠興によって追放され、中津市へ移り、さらに追われて長崎市へ移った。
長崎のコレジオで教えていたが、慶長13年(1612年)11月13日に病死。
ヨーロッパ帰国から22年目であった。

なお、「大友宗麟の名代として選ばれた」と一般に知られているが、ローマ教皇などに宛てられた宗麟の書状の花押が、古い時代(1564年~1572年頃)に使用されていたものであったり、署名が当時、宗麟が洗礼名(フランシスコ)を漢音で表した「普蘭師司怙」や、それを略した「府蘭」を用いていたのに対し、他の書状には見られない「不龍獅子虎」という署名を用いており、彼らが携帯していた大友宗麟の書状は偽作である可能性が高く、実際には宗麟は少年団派遣を関知しておらず、有馬氏・大村氏・ヴァリニャーノが主導となって行ったものであり、「大友宗麟の名代」として彼を任命したのは、宗麟本人では無い可能性が高い事が松田毅一氏の論文などで指摘されている。

挿話

遣欧使節の旅の途中で立ち寄ったトスカーナ大公国で舞踏会に使節たちが招かれた時、マンショはトスカーナ大公妃・ビアンカ・カッペッロと踊ったという記録もある。

[English Translation]