伊賀光季 (IGA 伊賀光季Mitsusue)

伊賀 光季(いが みつすえ、? - 1221年6月6日(承久3年5月15日 (旧暦))、光末とも書く)は鎌倉時代前期の武将。
藤原秀郷流の伊賀朝光(藤原朝光)の長男。
母は二階堂行政の娘。
弟妹に北条義時の継室・伊賀の方、伊賀光宗。

人物

北条義時の義兄に当たり、また父は幕府の重臣であることから、幕臣として重用された。
1212年、常陸国内に地頭職を与えられる。
1219年2月、大江親広と共に京都守護として赴任したが、1221年の承久の乱で後鳥羽天皇(上皇)の招聘に応じなかった。
光季は「職は警衛にあり、事あれば聞知すべし、未だ詔命を聴かず、今にして召す、臣惑わざるを得ず」と答えた。
再び勅すると、「面勅すべし、来れ」と言った。
「命を承けて敵に赴くは臣の分なれども、官闕に入るは臣の知る処にあらず」と言って行かなかった。
このため、同年5月15日に官軍によって屋敷を襲撃され、子の伊賀光綱と共に自害を余儀なくされた。
のちに北条泰時が光季の故地を遺子の伊賀季村に与えた。

[English Translation]