伊達政宗 (DATE Masamune)

伊達 政宗(だて まさむね、1567年9月5日 - 1636年6月27日)は、戦国時代 (日本)の武将。
出羽国(羽州)と陸奥国(奥州)の戦国大名。
陸奥仙台藩の初代藩主。

本姓は藤原氏。
家系は伊達朝宗を祖とする伊達氏。
第16代当主・伊達輝宗と最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の嫡男。
幼名は梵天丸、字は藤次郎、諡号は貞山。
神号は武振彦命で、青葉神社に祭られる。

幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明した。
また、戦国屈指の教養人として、豪華絢爛を好むことで知られていた。
諱の「政宗」は伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主・伊達政宗 (大膳大夫)にあやかったもので、この大膳大夫政宗と区別するべく藤次郎政宗と呼ぶことも多い。

幼年期

永禄10年(1567年)、出羽国米沢市の米沢城に生まれる。
元亀2年(1571年)、疱瘡(天然痘)に罹り右目を失明する。
当時、天然痘を治す治療方法はなく、死の病であった。

豊臣秀吉や徳川家康に「右目はどうしたのか?」と聞かれた際において、政宗は「木から落ちたとき、右目が出てきてしまったが、あまりに美味しそうだったので、食べてしまった」と語っている。

また、片倉景綱が容貌を悪くしていた右目を短刀で摘出したという逸話もある。

元亀3年(1572年)、政宗の将来を心配した父・伊達輝宗が招いた臨済宗の虎哉宗乙(こさいそういつ)禅師による厳しい教育が始められ、仏教や漢学を学ぶ。
天正3年(1575年)、神職の子である片倉景綱が守り役を命ぜられ側近となる。
景綱は政宗の側近中の側近として、時には軍師として生涯忠誠を尽くした。

家督相続から摺上原の戦いまで

天正5年(1577年)に元服、天正7年(1579年)には仙道の戦国大名で三春城主田村清顕の娘愛姫を正室とする。
天正9年(1581年)、隣接する戦国大名・相馬氏への侵攻に15歳で初陣し、勝利を収める。

天正12年(1584年)に18歳で家督を相続し、伊達家17代を継承する。
父・輝宗は41歳の働き盛りでもあり、政宗は当初、年少を理由に辞退を申し出たが、政宗の武将としての素質を見抜いていた輝宗の決意は固く、家督を相続することとなった。

小手森城主の戦国大名・大内定綱は二本松城主の戦国大名・畠山義継と手を組み、田村氏からの支配を脱却し、政宗に対抗しようとした。
天正13年(1585年)、政宗は小手森城へ兵を進める。
討伐の際は、降伏を認めないなどの徹底した粛清(小手森城政宗の撫で斬り)を行い、非道な一面を見せた。
豪族が殆ど親戚・縁戚同士という奥州では皆殺し戦術は前代未聞の大事件であり、近隣の戦国大名を恐怖に陥れた。
これは、近隣諸国への見せしめである。
しかし、一方で政宗は後年、戦略的見地から定綱を家臣の列に加えている。

大内定綱の没落を間近で見た畠山義継は、和議を申し出た。
輝宗の取りなしにより5ヶ村のみを畠山領として安堵することになった。
ところが輝宗が、所領安堵の件などの礼に来ていた畠山義継を城門まで見送りに行った所を拉致される。
政宗は事件の時、狩りに出かけていたが急遽戻り、畠山一行を追跡し、父・輝宗もろとも鉄砲を放って一人も残さず殺害したという。
この事件は、輝宗が自分とともに義継を撃てと命じたとの説や追跡してきた政宗の軍勢がすでに鉄砲で武装していたことから、政宗の父殺しの陰謀だったとする説など発生原因も含めて諸説ある。

その後、初七日法要を済ますと輝宗の弔い合戦のため早くも二本松氏の二本松城を包囲し、畠山氏救出のため集結した、佐竹氏・蘆名氏など3万の反伊達連合軍と安達郡人取橋で死闘を演じた。
数の上で五分の一以下の戦力であった伊達軍は重臣・鬼庭良直を討たれ窮地に立つものの辛くも持ち堪え、反伊達連合軍の撤退により政宗は勝利をおさめた(人取橋の戦い)。

政宗は更なる侵攻を行い、天正16年(1588年)に郡山合戦にて相手国の領土を奪う。
正妻愛姫の実家田村氏の協力を得て、現在の福島県中通り中部にあたる地域まで支配下におく。

関白豊臣秀吉は関東・東北の諸大名、特に関東の北条氏と東北の伊達氏に対して、惣無事令を発令した。
しかし、政宗は秀吉の命令を無視して戦争を続行した。

同年、北方の大崎氏家中の内紛に介入、兵1万を以て攻め入ったものの大崎氏の頑強な抵抗、及び味方であった黒川晴氏の裏切りと大雪により敗北。
これに乗じて伊達領南部に蘆名氏、二階堂氏らが侵攻。
また伯父・最上義光とも一触即発の事態となるが義姫の仲介により和議が成立し窮地を脱した(大崎合戦)。

天正17年(1589年)には東北地方の覇権を賭けて会津の蘆名義広・佐竹氏の連合軍と戦う。
この戦いを摺上原の戦い(磐梯山麓・猪苗代町付近)という。
蘆名氏はすでに関白、秀吉傘下の大名となっており、政宗が蘆名氏と戦うことは秀吉への挑戦を意味していた。
蘆名義広は1万5千の兵を率い、政宗も2万1千を率いて磐梯山の中腹に陣を敷いた。
この戦いで伊達軍は騎馬武者300騎、兵2千余りを討ち取ったという。
黒川城を陥落させ蘆名氏を滅ぼし会津地方を支配した。
さらに兵を須賀川へ進め二階堂氏を滅ぼした。
この戦いと前後して、戦国大名・白河義親、石川昭光、岩城常隆が次々と政宗に服属した。

このとき政宗は現在の福島県の中通り地方と会津地方、及び山形県の南部、宮城県の南部を領し全国的にも屈指の領国規模を築いた。
これに加え上述の白河結城氏といった南陸奥の諸豪族や、また今の宮城県や岩手県の一部を支配していた大崎氏・葛西氏も政宗の勢力下にあった。

豊臣秀吉との対立

この頃、中央では豊臣秀吉が織田信長の統一事業を継承しており、政宗は秀吉と鋭く対立した。
秀吉から上洛して恭順の意を示すよう促す書状が何通か届けられており、政宗はこれを黙殺していた。
政宗は父、伊達輝宗の時代から後北条氏と同盟関係にあったため、秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべきか、直前まで迷っていた。
しかし、1590年、秀吉の兵動員数を考慮した政宗は秀吉に服属し、秀吉は政宗の本領を安堵した(ただし、会津領攻略は秀吉の令に反した行為であるとされ、会津領などは没収され、72万石になった)。
記録ではこのとき小田原攻めに遅参したという理由で秀吉が政宗を事実上監禁して脅したが、政宗は詰問に来た前田利家らに千利休の茶の指導を受けたいと申し出、秀吉らを感嘆させた。
この行為は秀吉の派手好みの性格を知っての行いと伝えられる。
政宗が秀吉に服属したため、政宗と同盟を結んでいた北条氏政・北条氏直親子は秀吉に降伏し、政宗の居城、会津・黒川城へ入城した秀吉は奥州仕置を行った。
ここに秀吉の「日本統一」が達成された。

参陣前に母親に毒殺されそうになり、母親を成敗する代わりに弟の伊達政道を斬殺したという説が通説となっている。
しかし、毒殺創作説も存在する。
母・義姫(保春院)はその後も伊達家にとどまったが、四年後に実家の兄・最上義光のいる山形城へ突如出奔した(詳細は義姫参照)。

翌天正19年(1591年)には蒲生氏郷とともに葛西大崎一揆を平定するが、政宗自身が葛西大崎一揆を扇動していた嫌疑をかけられる。
これは氏郷が「政宗が書いた」とされる一揆勢宛の書状を入手した事に端を発する。
また、京都では政宗から京都に人質として差出した夫人は偽者であるとか、一揆勢が立て篭もる城には政宗の幟(のぼり)や旗が立てられているなどの噂が立ち、秀吉の耳にも届いていた。
そこで政宗は上洛。
一揆扇動の書状は偽物である旨秀吉に弁明し許されるが、米沢城から玉造郡岩手沢城に58万石に減らされての転封となり、城名を岩出山城に変えた。

文禄2年(1593年)秀吉の朝鮮出兵に従軍して朝鮮半島へ渡る。
また、普請事業なども行う。
朝鮮出兵時に政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた戦装束は非常に絢爛豪華なもので、上洛の道中において盛んに巷間の噂となった。
三千人もしくは千五百人の軍勢であったとの記録がある。
他の軍勢が通過する際、静かに見守っていた京都の住民も伊達勢の軍装の見事さに歓声を上げたという。
これ以来派手な装いを好み着こなす人を指して「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになった、と伝えられる。
これは、派手好みの秀吉が気に入るような戦装束を自分の部隊に着させることで本陣に近い配置を狙い、損害を受けやすい最前線への配置を避けるよう計算したものと言われる。

豊臣政権においては、秀吉の天下統一事業の際早くから秀吉に服属して五大老に選ばれた大名たちとはことなり、政宗は北条氏と同盟して秀吉と対立したため、五大老には選ばれなかった。

文禄4年(1595年)、秀吉から謀反の疑いをかけられた関白豊臣秀次が切腹した。
秀次と親しかった政宗の周辺は緊迫した状況となった。
この時母方の従姉妹に当たる最上義光の娘・駒姫は、秀次の側室になる為に上京したばかりであったが、秀次の妻子らと共に処刑されてしまう。
政宗も秀吉から謀反への関与を疑われるも、最終的には無関係であるとされ連座の難を逃れた。

秀吉の死後、五大老・徳川家康と政宗は秀吉の遺言を破り、慶長4年(1599年)、政宗の長女・五郎八姫と家康の6男松平忠輝を婚約させた。

関ヶ原合戦と最上陣

豊臣秀吉死後の慶長5年(1600年)に家康が会津領主・上杉景勝に謀反容疑をかけ、上杉討伐を行った。
正宗は、討伐に従軍して、7月25日に上杉の支城で登坂式部勝乃が守る白石城を陥落させた。
家康の留守中に五奉行の石田三成らが家康に対して毛利輝元を総大将として挙兵した。
そのため、小山まで北上していた家康は西へ向かった。
この際、家康は政宗に、戦勝の暁には現在の所領58万石に加え、新たに49万石の領土を与えるという内容の書状(「百万石のお墨付き」仙台市博物館・蔵)を送っている。
これは、家康が上杉景勝を会津に釘付けにしておくため、政宗の東軍参加が是非とも必要であったことから、100万石のお墨付きを与え、東軍参加を促したとされる。

同年9月、関ヶ原の戦いになると、家康ら東軍に属した政宗は、上杉氏の将直江兼続率いる軍が最上氏居城山形城を攻撃すると、留守政景を名代として最上に援軍を派遣した(長谷堂城の戦い)。

9月25日には茂庭綱元に命じて、上杉領の湯原城を攻略させた。

政宗は長谷堂城の戦い後、直江兼続が米沢に帰ったのを見て取ると、仙道方面への侵略を開始、10月6日宮代で本庄繁長の上杉軍を破った。
伊達軍は更に福島城を囲んだが、城の防御は堅く、翌日には撤退した(宮代表合戦、上杉家俗称松川の戦い)。

戦後、政宗が密かに白石宗直に支援させて、南部氏領国で和賀忠親に一揆を煽動させていた策略が発覚した(一揆軍は翌慶長6年4月に敗北)。
この「和賀一件」を重く見た家康は、事件追及の構えを見せ、49万石加増、すなわち計100万石の約束手形を反故にした。
結果的に政宗への恩賞は、仙台開府の許可と陸奥国刈田郡(白石)合わせて2万石の加増のみにとどまり、領地は60万石となった(後に近江国と常陸国に小領土の飛び地2万石の加増で62万石となる)。

仙台開府と慶長遣欧使節

慶長6年(1601年)には仙台城、仙台城下町の建設をはじめ、居城を移す。
ここに、伊達政宗を藩祖とする仙台藩が誕生した。
仙台藩・62万石 (単位)は加賀・前田氏、薩摩・島津氏に次ぐ全国第3位であるが、それは表高であり、仙台藩の実高は優に100万石を越えていたといわれる。

仙台城は山城で天然の地形を利用した防御であるものの、仙台城下の城下町は全面的な開発であるため、のべ百万人を動員した大工事となった。
藩内の統治には48ヶ所の館を置き家臣を配置した。

伊達政宗は仙台藩とスペインとの通商(太平洋貿易)を企図し、1613年(慶長18年)、仙台領内において、スペイン帝国国王フェリペ3世 (スペイン王)の使節セバスティアン・ビスカイノの協力によってガレオン船・サン・フアン・バウティスタ号を建造した。
政宗は家康の承認を得ると、ルイス・ソテロを外交使節に任命し、家臣・支倉常長ら一行180余人をヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)、エスパーニャ、およびローマへ派遣した(慶長遣欧使節)。

慶長19年(1614年)の大坂の役では、片倉重長が後藤基次らを討ち取り、真田信繁(幸村)の攻勢を受けて立つなど大きな功があった。

世情が落ち着いてからは、もっぱら領国の開発に力を入れ、後に貞山堀と呼ばれる運河を整備した。
北上川水系の流域を整理し開拓、現代まで続く穀倉地帯とした。
この結果、仙台藩は表高62万石に対し、実高100万石を越える米の生産量を確保した。
文化的には上方の文化を積極的に導入し、技師・大工らの招聘を行い、桃山文化に特徴的な荘厳華麗さに北国の特性が加わった様式を生み出し、国宝の大崎八幡宮、瑞巌寺、また塩竈神社、陸奥国分寺などの建造物を残した。
さらに近江在住の技師・川村孫兵衛を招き、北上川の河口に石巻港を設けた。
これにより北上川流域水運を通じ石巻から江戸へ東廻り航路で米を移出する体制が整う(江戸時代の多くの期間において、江戸で流通する米の半分は仙台藩石巻港からの廻米であった)。

2代将軍徳川秀忠、3代徳川家光の頃まで仕え、寛永13年(1636年)5月江戸で死亡。
享年70。
死因は癌性腹膜炎あるいは食道癌(食道噴門癌)と推定されている。
「たとえ病で失ったとはいえ、親より頂いた片目を失ったのは不孝である」という政宗の考えから死後作られた木像や画にはやや右目を小さくして両目が入れられている。

辞世の句は、「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」

法名:瑞巌寺殿貞山禅利大居士(尊称:貞山公)。

米沢城(山形県米沢市)

- 永禄10年(1567年)~天正13年(1585年)

小浜城 (陸奥国)(福島県二本松市)

- 天正13年(1585年)~天正14年(1586年)

米沢城

- 天正14年(1586年)~天正17年(1589年)

若松城(福島県会津若松市追手町)

- 天正17年(1589年)~天正18年(1590年)

米沢城

- 天正18年(1590年)~天正19年(1591年)

岩出山城(宮城県大崎市)

- 天正19年(1591年)~慶長5年(1601年)

仙台城(宮城県仙台市青葉区 (仙台市))

- 慶長5年(1601年)~寛永4年(1627年)

若林城(宮城県仙台市若林区)

- 寛永4年(1627年)~寛永13年(1636年)

墓所

墓所:仙台市青葉区 (仙台市)霊屋下の瑞鳳殿。
これは政宗の死後、伊達忠宗によって寛永14年(1637年)10月に建立された。
昭和6年(1931年)に国宝に指定されたが、昭和20年(1945年)の戦災で焼失した。
現在の瑞鳳殿は昭和54年(1979年)に再建されたものである。

再建に先駆けて、昭和49年(1974年)には発掘調査が行われ、遺骨の学術的調査から身長は159.4センチメートル(当時の平均的身長)であることや、 遺骸毛髪から血液型がABO式血液型であることが判明した。
また、副葬品として太刀、具足、蒔絵を施した硯箱、鉛筆、懐中日時計兼磁石、懐中鏡、煙管、銀製ペンダント、黄金製のロザリオなど、30余点が確認されている。

逸話

父輝宗は伊達家中興の祖と呼ばれる第9代政宗にあやかって、息子に政宗と名づけたという。
本人もそのことを誇りにしていたようで、実際政宗はその先祖にまつわるところへの埋葬を望み結果的にそこへ埋葬された。

隻眼の行者、満海上人の生まれ変わりであるという逸話は、政宗の存命中から広く知れ渡っており、東北地方の昔話の中には「仙台様(政宗のこと)の霊力で母親の病気を治してもらうために旅に出る農民の話」などが伝わっている。

正室・愛姫と、少なくとも七人の側室がおり、五郎八姫など十男四女をもうけた。

政宗の側室の中には外国人の側室もいた。
この側室は、政宗が出兵に従軍した際、捕虜として連れ帰った朝鮮人の女性である

衆道関係においては、小姓の只野作十郎(只野勝吉)へ宛てた書状が残されている。
同じく衆道の関係にあった片倉景綱の息子片倉重長に対しても、大坂の役出陣の前夜、翌日の先陣を願った重綱に、「そのほうに御先鋒仰せ付けられず候て、誰に仰せ付けられるべきや」と言って重綱の頬に接吻した、との記述が『片倉代々記』に残っている。

政宗は正室・愛姫との間にもうけた嫡出の次男忠宗を後継者とした。
側室飯坂氏(通称・猫御前)との間に生まれた長男・秀宗はあくまで庶子とみなし、また豊臣家との関係もあったため本家を継がせなかった。

摺上原の戦いの後、政宗が黒川城に入城する際、戦勝を祝って一族の伊達重宗が即興で「音もせで 茅野(かやの)の夜の時雨来て 袖にさんさとぬれかからぬらん」と歌った。
これが後に結婚式などのおめでたい席で歌われることがある東北民謡「さんさ時雨」の元歌になったと言われるが、俗説であり事実ではない。
福島県北部と宮城県では、現在でも結婚披露宴等の祝いの席ではさんさ時雨が歌われるが、一方、福島県会津地方ではさんさ時雨を歌うとひんしゅくを買うことがある。

大崎一揆煽動の疑惑で豊臣秀吉に呼び出され、証拠の文書を突きつけられた際証拠文書の鶺鴒の花押に針の穴がない事を理由に言い逃れを行った。
それまで送られた他の文書との比較で証拠文書のみに穴がなかったため、やり過ごす事が出来た。
実際には二種類の花押を使い分けていた可能性が高く、秀吉も疑ったらしいのだが確証が得られなかった。
但し、現存する政宗の書状の中に花押に穴の開いたものはない。

政宗は朝鮮出兵に同行していない説があるが、俗説であり事実ではない。
政宗らが渡鮮したことを実証するものとして、隠居所である若林城(現宮城刑務所)と政宗が再建した瑞厳寺に、朝鮮から持ち帰らせた「臥龍梅」が残っている。

政宗は家康に従って後の天下取りの機会をうかがうことを優先し、旧領である上杉領に進攻し100万石のお墨付き分の領地を自らの手で獲得することを狙った。
しかし、関ヶ原の戦いが予想以上に短期間で終結したためにその試みは頓挫した。

最上氏の居城である山形城が上杉家の攻撃を受けた際、片倉景綱が共倒れを狙い、漁夫の利を奪うよう進言したが政宗は母親の安全を理由にこれを却下し援軍を出した。
しかしこの説は定かではない。
しかし、援軍は上杉軍が最上軍を攻めるのを傍観していた。
上杉軍が山形城を落としてから動く陰謀を抱いていたと言われる。

大坂夏の陣後には天下安泰を願う家康に心服し、松平忠輝の改易などもあり天下取りの野望をあきらめざるをえず、領国経営に努めたようだ。
しかし、この説は、政宗の野望説を唱える史料(政宗は徳川幕府を倒し、婿の松平忠輝を将軍職に就ける構想を立てていたとするもの)などから否定されることも多い。

大坂夏の陣の際に、5月7日船場口で伊達勢の前方に展開していた神保相茂隊が明石全登隊の奇襲を受けて全滅した
これは、政宗による味方討ちではとの風聞が立った。
政宗は、神保隊が明石隊によって総崩れになったため、これに自軍が巻き込まれるのを防ぐため仕方なく処分したと主張した。
この事件は、幕府が最終的に伊達家の見解を追認して決着したが、事件直後から様々な興味と憶測を生んだ(詳細は神保相茂の項を参照)。

砂金常房(砂金貞常の嫡男)は大坂の役で、軍令違反を起したが咎められず逆に一族に列した。
それゆえに、政宗の落胤ではないかとの説もある。

徳川家光からは非常に尊敬されていた。
政宗本人の器量に加え、自らを将軍として立ててくれた後見人であり、また敬神する祖父・家康とも渡り合った戦国の雄でもあった。、
家光にしてみればあらゆる面で父親替わりだったのであろう。
幕府の意向はどうあれ、家光個人が政宗に向けた処遇は、明らかに外様に遇する程度を超えている。

将軍の前での脇差帯刀を許されていた。
側近が酔って居眠りする政宗の刀を調べると中身は木刀であったという。

二条城へと参内する際、御三家でも許されなかった紫の馬の総を伊達に与えた。

政宗が病床についた際は、医者を手配した上で江戸中の寺社に快癒の祈祷を行わせ、死の3日前には家光自らが見舞いにきた。
政宗が亡くなると、父・秀忠が死んだ時よりも嘆き入り、江戸で7日、京都で3日の間殺生や遊興が禁止された。

政宗には離間、扇動工作等をした色々な嫌疑が絶えなかった。
また、黒脛巾組という忍者集団がいたと仙台藩士の半田道時の伊達秘鑑には掲載されている。
その一方で、『政宗記』などには、黒脛巾組という名称の記述は見あたらない。
参考(葛西大崎一揆や和賀忠親一揆等)

実戦経験がない将軍家光はしばしば政宗など実戦経験豊かな大名に合戦について質問をした。
ある日、政宗と佐竹義宣 (右京大夫)を招いて摺上原の戦いについて色々質問したが、勝者であった政宗が雄弁であったのに対し、敗者の佐竹義宣は始終無言で、唇を噛みしめているだけであったという。

遺品にロザリオがあったことなどから、政宗は密かにキリスト教に帰依していたのではないかと伝わっている。
政宗の長女の五郎八姫は一時期キリシタンだったことがある。

養生法が変わっていて、冬に炬燵の片側を開けさせていた。

朝は早く目が覚めても、定時に側の者が起こしに行くまでは起床しないという拘りがあった。

料理が趣味。
元々は兵糧開発のために行っていたのだが、戦国が終わり太平の世になると美食を極めるために料理の研究をしていた。
政宗は、料理について「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である」と言う名言を命期集に残している。
仙台市発祥の料理が多いのは、政宗の影響と思われる。
また仙台城下では味噌倉を建てていたが、大規模な味噌生産体制が行われたのは、これが最初といわれているという。

岩出山名物の凍り豆腐と納豆は、政宗の料理研究の末に開発されたものであるが、元々は兵糧用だった。
仙台名物のずんだ餅も政宗が考案したという説がある。

料理の他にも多くの趣味を持ち、晩年は一日たりとも無駄に過ごすことがなかったと言う。

喫煙者で、毎日起床後・昼・睡眠前と、規則正しく3回煙草を吸っていた。
遺品に、愛用のキセルがある。

隙のない印象の政宗であるが、酒にだけは滅法弱く、酔って失敗した逸話がいくつか残されている。
中には将軍秀忠との約束を二日酔いですっぽかし、仮病を使って言い抜けたという話まである。

映画『スター・ウォーズ』のダース・ベイダーのマスクは仙台市博物館所蔵の「黒漆五枚胴具足 伊達政宗所用」の兜をモチーフにデザインされた。

大悲願寺13世海譽の元で弟子として在山していた弟・秀雄のもとを政宗が訪れ四方山話をし庭にあった白萩を気に入り所望し貰い受け、臥龍梅を大悲願寺に贈った。

明治天皇は政宗の事を以下のようにと評している。
「政宗は、武将の道を修め、学問にも通じ、外国の事情にも思いをはせて交渉を命じた。
文武に秀でた武将とは、実に政宗のことである」

宮城県宮城郡松島町にある伊達光宗の菩提寺円通院には、伊達一本締めという仙台藩祖・伊達政宗ゆかりの一本締めが伝承されている。
「いよ~っ、パパパン!、いよ~っ、パン!」という「3」と「1」の拍子の組み合わせが「三国一」を表しており天下を狙った政宗の夢が込められている。
慶長遣欧使節の支倉常長もこの”伊達一本締め”で見送られ、徳川政権が安定してからは秘めた意味が露見しないよう姿を消したと言われている。
そのため資料が一切残っておらず、伊達家所縁の円通院に代々人づてに伝えられていた。

政宗の野望

政宗は豊臣政権時代から、隙あらば天下を簒奪しようと何度も策略していたとされている。

秀吉の小田原の役のとき、参陣に遅延したのは、奥州、特に新たに手に入れた芦名家領土の「経略多端」の故と弁明している。
佐竹氏一派と対抗し、同盟関係にあった後北条氏と手を結んで秀吉を倒そうとした。
秀吉は、伊達氏を従えて奥州仕置を行なった。
また、伊達家を中心に奥州の諸大名の連合軍を組織し後北条氏と連携、徳川家康ら豊臣家中の不穏分子の蜂起を待つという構想も持っていたようだ。

葛西大崎一揆を扇動して、密かに領土拡大を狙ったという説がある。

関ヶ原の戦いのとき、和賀忠親を扇動して南部利直の領土を侵略しようとしたが失敗した。

政宗の裏切りに対して家康は報復し、刈田郡のみの加増にとどめた。
これは東軍参加の武将の中では加増の伸び率が最も少ない部類である。

政宗の関ヶ原直前の所領58万石は度量衡改定以前の一反三百六十歩で計算されたものという説がある。
これが正しいとすると豊臣政権において定められた一反三百歩で計算した場合、67万石にまで上昇する。
また仙台平野には開墾に適した三角州などの土地が多数存在し、当初から土地には余裕があった。
政宗は関ヶ原以降、開拓地を知行として与える方式を取りら各領主に開墾を奨励、仙台平野の新田開発を推し進めた。
(1628年には、白石城主片倉重長が新田開発を行い千石相当の石高を新たに獲得している。)
この政宗に始まる開墾事業は後の藩主たちにも受け継がれ、仙台藩の実高はみるみる増大した。
寛文年間以降は藩自らが主動した新田開発も行われた。
100年後の江戸時代中期には実高200万石とも謳われる日本最大級の藩に成長した。
政宗が江戸に廻送を始めて以降、江戸に供給される米の大半は仙台の米となり、作の豊凶は江戸の米相場を支配するほどであった。
最盛期には表高の1/3にあたる二十万石もの米が江戸に出荷されていた。
享保17年(1732年)には、西国の蝗害により江戸で米価の暴騰が起こり、例年の倍以上の米が出荷されたとある。
なお、このときの収益は約50万両にものぼったという。
この豊かさは広く知られており、安井息軒の『読書余滴』に「二百万石余」、帆足万里の『東潜夫論』には「二百五十万石」との記述がある。

政宗は幕府転覆を図るために、支倉常長を使者としてローマに派遣した(慶長遣欧使節)。
このときのことを示す有力な史料もある。
支倉常長はローマとの軍事同盟交渉のとき、国王・フェリペ3世に対して、以下のように発言している。
「政宗は勢力あり。」
「また勇武にして、諸人が皆、皇帝となるべしと認める人なり。」
「けだし日本においては、継承の権は一に武力によりて得るものなり」
また、仙台藩の庇護を受けていた宣教師のジェロニモ・デ・アンジェリスも、次のような手紙を本国に送っている。

「テンカドノ(家康)は政宗がスペイン国王に遣わした使節のことを知っており、政宗はテンカに対して謀反を起こす気であると考えていた。
彼ら(家康・秀忠父子)は政宗がテンカに対して謀反を起こすため、スペイン国王およびキリシタンと手を結ぶ目的で大使(支倉常長)を派遣したと考えた」

支倉常長はローマ教皇にも謁見した。
この時代の日本人がローマ教皇に謁見した史実は、日本の外交史の中で特筆される実績である。
また、今でもスペインのコリア・デル・リオには現地に留まった仙台藩士の末裔が多数存在する。
彼らは「日本」を意味する「ハポン」を姓として名乗っている。

また、政宗は幕府軍と天下を賭けて戦うことになった場合には、という、幕府軍との決戦に備えた図上演習、すなわち作戦立案をしていたと言われている。

「元和二年大坂御陣落去以後。
仙台出馬之由にて御陣触御座候。
此時貞山(政宗)様御内試に。
御家中の妻子人しち御取なされ。
さて仙台川を藤塚閑上辺にてせき留藤塚へ番勢を被指置。
御裏林より砂押へ御馬を被出。
砂押御鉄砲薬蔵の南の山。
にか峯に御旗を被立。
御対陣可被成との御内試にて。
其節ひしと御裏林よりかの地へ。
御出御見分被遊候」
(仙台川(現在の名取川)を堰き止めて仙台南部を水浸しにして幕府軍の進軍を阻止し、さらに狭隘地に幕府軍を誘い込んで迎撃する。一方で、一揆衆を幕府軍後方で扇動し、後方を撹乱するつもりだった)。

「大軍を御引受。御境目之御一戦。」
「万一御おくれの刻。右に書付御内試之通。横川筋へ御馬を被入候節。」
「御定かかりの地と申候。自然御運命尽夫も不被為叶時節に候はば。御最期之場と思召にて、瑞巌寺御菩提所に御取立被成候よし」
(政宗は幕府軍に敗れた場合は、松島瑞巌寺にて自害するつもりだった)。
(『東奥老子夜話』より抜粋)。

しかし、政宗と親密であった徳川家の家臣、大久保長安が死後に一族もろとも処罰され(大久保長安事件)、娘婿の松平忠輝(家康の六男)が改易され、スペインとの同盟が不調に終わり、倒幕は実現されなかった。

幕府は政宗存命中は、政宗がいつ謀叛を起こすかと常に警戒していたといわれている。
家康晩年の元和 (日本)2年(1616年)1月23日のイギリス商館長・リチャード・コックスの日記では、以下のように記されている。
「風評によれば、戦争は今や皇帝(家康)とその子カルサ様(松平上総介忠輝)との間で起こらんとし、義父政宗殿は、カルサ殿の後援をなすべし云々」

寛永5年(1628年)3月12日、政宗は徳川秀忠を仙台藩江戸屋敷に招待して供応した。
このとき、政宗自らが秀忠の前に膳を運んだのだが、そのとき秀忠側近の内藤正重が、「伊達殿に鬼見(毒見)をしてほしい」と声をかけた。
政宗はこれに対して、激怒して以下のように返答したと、『政宗公御名語集』に記されている。
「外記(正重)言はれぬ事を被申候。政宗程の者が御成を申自身御膳を上るうへ。」
「おにする(毒見する)所にてはなきぞ」
「御膳に毒を入るるは、早十年前の事なり。」
「十年前にも,日本の神かけて毒などにて。殺し奉るべきとは夢々思はぬぞ。
「一度は乗寄てこそとは思ひ候」
つまり、10年前の元和4年(1618年)なら、(徳川幕府の基盤がまだ磐石ではなかったため)謀反を起こす気もあったが、その時でさえ、この政宗は毒殺などというせせこましいことはせず、一槍交えて戦おうとしただろうと言っている。
正重を厳しく叱責しているのである。
秀忠は御簾の向こうでこのやりとりを聞き、「さすがは伊達の親父殿よ」と涙したという。

徳川秀忠は寛永9年(1632年)1月に死去したが、このとき秀忠は政宗を枕元に呼び、次のように述べたと『政宗公御名語集』にはある。

「年月より病気次第に心重く覚候。」
「兎角して快気難成覚候間。」
「少も本心の有内に。其方へ掛御目度事は昔より今日至迄。御心指一ツとしてわするる事なし。」
大御所(家康)様駿河の御殿にて御病気重き折節悪き者の申入候にて、己に其方謀反のよし其聞へ候間。
我等も御病気にもかまはず奥州へと心掛候」
(家康が駿府城で死の床に臥していたとき、政宗が謀反を起こすという噂が立ったので、家康は自分の病気にかまわず奥州討伐のための軍を起こそうとしていた)。

晩年の政宗は、『酔余口号』という漢詩を残している。
「馬上少年過、世平白髪多、残躯天所赦、不楽是如何。」
前半の三句は以下のように解釈できる。
「若い頃は馬に乗って戦場を駆け抜けたが、世は太平になり自分にも白髪が増えた。
天に与えられた余生が残ってはいるが」
しかし最後の句は「楽しまずんば是いかん(これを楽しまずしてどうしようか)」あるいは「楽しまず是如何に(楽しいとは思えないのはどうしたことか)」と全く違う二通りの解釈ができてしまう。
政宗自身がどちらともとれるように作ったとも言われているが、政宗の残した大きな謎となっている。

仙台城は山城で平和な世の治世には適さぬとして、自分の死後、平城へ移ることを奨めていた。
逆に言えば生前は死の前まで天下を取る野心を捨てていなかったといわれる。

上述のように隙あらば天下を取ろうと狙っていた彼は、中央から常に警戒されていた。
彼は「あと20年早く生まれていれば……(天下が取れたのに)」と悔しがっていたといわれる。

その一方で、家光の代においては「かつては天下を狙っていたが、今は家光を支える立場である」という事を示す逸話が見られる。

家光の就任の宣言は以下のような大変威圧的なものであった。
「祖父、父とは違い、自分は生まれながらの将軍であるから、大名方は今後は臣従の礼をとるべきだ。
異論があるならば国へ帰り戦の準備をされよ」
政宗はこれに対し「政宗はもとより、異論のある者などおるはずがありませぬ」と即座に継ぎ、その場の皆が平伏したとされている。
この家光の発言は政宗の助言によるものだったとも、あるいは幕閣が政宗に予め根回して即座に返答するよう依頼したとも言われている。

家光が鷹狩に没頭し、下宿(外泊)を頻繁に行うのに困った幕閣が政宗に説得を頼んだ。
正宗は家光にに言った。
「下宿はお止め下さい。
私も家康公の御首を何度か狙ったことがございます」
すると、以後下宿を行わなくなったという。

官職位階履歴

※日付=旧暦(明治5年12月2日まで)

天正12年(1584年)10月

- 家督継承

天正13年(1585年)閏8月

- 従五位美作国に叙任。

天正14年(1586年)

- 左京大夫に転任。

天正19年(1591年)3月

- 侍従に遷任し、越前国を兼任。
羽柴氏の苗字を関白豊臣秀吉から授かる。

慶長2年(1597年)

- 従四位に昇叙し、近衛府に転任。
越前守如元。

慶長13年(1608年)1月

- 陸奥国を兼任。
越前守任替。
松平氏の苗字を第2代征夷大将軍徳川秀忠より授かる。

元和 (日本)元年(1615年)

閏6月19日

- 正四位に昇叙し、参議に補任。

月日不詳

- 参議辞職。

寛永3年(1626年)8月19日

- 従三位中納言に昇叙転任。

寛永11年(1634年)8月

- 所領石高62万5000石となる。

大正7年(1918年)11月18日

- 贈従二位。

別名

伊達美作守

伊達左京大夫

羽柴伊達侍従

羽柴長井侍従

羽柴陸奥侍従

羽柴侍従

羽柴大崎侍従

大崎侍従

大崎少将

羽柴越前守

松平陸奥守

仙台宰相

仙台中納言

※ 他に独眼竜、仙台黄門など

政宗の異名『独眼竜』について

『独眼竜伊達政宗』(高橋紫燕・著,久保天随・校、大阪:鍾美堂,明34(1901)9月刊行)が出典。
本の名前である。
なお、本文中で奥羽の覇王という用語も使用されている。
独眼竜伊達政宗、奥羽の覇王、いずれも、伊達政宗存命中の呼称ではなく、後世の命名である。

『太閤記』では、奥州の太守となっている。

なお、それに先駆け、独眼竜とは旧陸軍第一師団長・陸軍中将・山地元治を指す。
出典は『支那征討英傑伝』(堀本柵・著、東京:東雲堂,明27(1894)11月刊行)。

『独眼竜政宗』は1987年のNHK大河ドラマのほか、1942年の大映映画などでもタイトルとして使用されている。

上記著書は、国立国会図書館近代デジタルライブラリーで原文の詳細を読むことができる。

主要家臣団

このうち、伊達成実・片倉景綱および鬼庭綱元を伊達三傑、片倉景綱と伊達成実を伊達の双璧と言うことがある。

遺訓

一、仁に過ぐれば弱くなる。
義に過ぐれば固くなる。
礼に過ぐれば諂(へつらい)となる。
智に過ぐれば嘘を吐く。
信に過ぐれば損をする。

一、気長く心穏やかにして、よろずに倹約を用い金銀を備ふべし。
倹約の仕方は不自由なるを忍ぶにあり、この世に客に来たと思へば何の苦しみもなし。

一、朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし。
元来客の身に成れば好き嫌ひは申されまじ。

一、今日行くをおくり、子孫兄弟によく挨拶して、娑婆の御暇申すがよし。

[English Translation]