伊集院忠国 (IJUIN Tadakuni)

伊集院 忠国(いじゅういん ただくに、生没年不詳)は、鎌倉時代末期から室町時代前期の薩摩国の人。
薩摩島津氏の一族、伊集院氏5代当主。
官は長門守。
子に伊集院久氏(6代)、女(島津氏久の室)、南仲景周(泰定山広済寺開山者)、石屋真梁(月光山泰雲寺開山者)。

経歴
伊集院氏5代当主。
4代伊集院忠親の子。
薩摩伊集院領主。
南北朝時代 (日本)の乱が起きると、当初は島津宗家5代当主の島津貞久とともに足利尊氏に協力していた。
足利尊氏が南朝 (日本)に敗れ九州に落ち延びると、貞久の招きに応じて北九州に出陣し、筑後国の南朝方豪族・菊池氏を討つ。
薩摩に戻った忠国だったが、延元2/建武 (日本)4年(1337年)、懐良親王(後醍醐天皇の九男)が征西将軍に任命され、先遣として南朝方公家の三条泰季が薩摩へ到着するや、南朝方に属して居城の一宇治城で挙兵する。
南朝方に属した薩摩の豪族は多かったが、島津一族の中で忠国は唯一南朝方に属した人物であった。

同年7月、忠国ら南朝方は伊作へ侵攻、伊作家島津久長の率いる北朝 (日本)方と交戦するも勝敗は決しなかった。
当時京都で戦っていた貞久は本領の危機を知り長庶子の川上頼久・久長の子である島津宗久を急ぎ帰国させ、南朝方討伐に向かわせる。
頼久らは帰国すると伊集院方の市来院を包囲。
忠国は市来院を救うため出陣するも、2か月後には城を放棄することになる。
市来院城の陥落後、忠国は南朝方の豪族とともに大隅国の肝付兼重を援護、南薩地方で北朝方と戦う。
延元3/暦応元年(1338年)、忠国は部将の村田如厳に命じ、給黎院(きいれいん)領主の和泉実忠(島津貞久の弟)を攻撃させる。
村田如厳は給黎院の2城を落とし薩摩へ侵攻、島津本家の居城である碇山城を包囲するも、激しい抵抗にあい3か月後に包囲を解いている。

興国元/暦応3年(1340年)、島津貞久が帰国して南朝方を攻撃すると、忠国は一宇治城を放棄し平城へ逃亡。
鹿児島の南朝方の城が次々と陥落する中、忠国は勢力の建て直しを計り、貞久が鹿児島を離れると肝属兼重とともに鹿児島の城を奪回する。
興国3/康永元年(1342年)、懐良親王が薩摩に到着すると、忠国はじめ薩摩・大隅の南朝勢力は親王が居城とした谷山城に集まる。
貞久は急ぎ谷山城を攻めるも敗退、貞久の子・氏久も負傷するなど南朝方優位の状態が続く。
忠国は観応元/正平 (日本)5年(1350年)には郡山の松尾城を陥落させ、郡山以南の地を南朝方の支配下に組み込んでいる。

郡山攻略後の忠国の事跡はあまり残っておらず、以後の詳細は不明である。
しかし観応2/正平6年(1351年)、貞久・氏久が南朝方に降伏、その後忠国の子・久氏は氏久に従い南朝方の畠山氏を攻撃している(島津氏は状況をみて帰属・離反を繰り返していた)ことや忠国の娘が氏久の室であることからも、この時期には島津宗家に協力していたと考えられる。

島津宗家と対立していた忠国は『島津家文書』などで「兇徒」「賊徒」などと記されているが、明治になって南朝への忠勤が認められ、従三位の位が贈られている。

[English Translation]