佐々木広綱 (SASAKI Hirotsuna)
佐々木 廣綱(ささき ひろつな、生年不詳 - 承久3年(1221年))は平安時代末期から鎌倉時代初期の武士である。
在京の御家人として鎌倉幕府に仕えるが、次第に後鳥羽上皇との関係を深め西面の武士となる。
承久の乱で官軍に属して戦い、敗れ梟首された。
生涯
佐々木定綱の長男として生まれる。
父は源頼朝に伊豆の流人の頃から仕え、近江国を始め四ヶ国の守護を務めており、広綱はその嫡男として早くに左兵衛尉に任じられた。
建久2年(1191年)、佐々木庄の年貢を巡る延暦寺との争いにより一門は流罪とされ、5月8日、広綱は隠岐国に流される。
建久4年(1193年)3月12日、後白河天皇の一周忌により罪を許される。
正治2年(1200年)、梶原景時が排斥されると、2月20日、左衛門尉を務める広綱は、京五条坊門面の景時邸に在る郎従を追捕する。
3月、京で殺人事件が起こり騒ぎになると、4月7日、鎌倉に飛脚で子細を伝える。
建仁3年(1203年)10月8日、源実朝の元服の儀に御家人百余名と共に参列し、鎧剣馬を奉ずる役を千葉常秀と共に務める。
19日、使節として上洛し京畿の御家人に将軍への忠誠を誓わせる。
建仁4年(1204年)1月21日、延暦寺の僧の事で朝廷に召される。
4月13日、正五位下に叙される。
元久2年(1205年)閏7月26日、牧氏事件で京に在る平賀朝雅を討つ。
この功で後鳥羽天皇より寄せかけの紋を賜り、家紋を四目結とした。
建暦2年(1212年)3月20日、在京奉行の功により一村の地頭を拝領する。
建暦3年(1213年)5月3日、和田合戦に敗れ西海へ落ち延びる和田義盛一族を討ち取るべき旨、北条義時より書状を送られる。
京では北条義時父子と大江広元の死が風聞しており、15日、戦場を見た飛脚を伴って参院し状況を報ずる。
更に鎌倉への下向を考えるが、3日の書状が届いた事により、京に留まり院の守りを続けた。
建保4年(1216年)4月28日、一条河原において東寺の盗賊ら五十余人を検非違使より渡される。
盗賊らは鎌倉に送り、後に陸奥国に流された。
建保6年(1218年)9月21日、延暦寺の僧らが京で強訴し、勅定により宮門でそれを防ぐ。
10月19日、仲恭天皇の降誕と源実朝の右大臣任官を飛脚で鎌倉に知らせる。
承久3年(1221年)5月15日、承久の乱が始まる。
広綱は西面の武士として官軍に属し、京極高辻の館に住む伊賀光季らを滅ぼし、その館を賜る。
館は後に京極氏の家名となる。
同日、北条義時追討の宣旨が発せられた。
5月22日、鎌倉方は北条泰時を大将とした軍を発し、弟の佐々木信綱はそれに属した。
6月3日卯の刻、関東方を迎え討つべく京を発する。
4日、尾張国木曽川に至り、大手の将軍として藤原秀康、盛綱、高重、三浦胤義らと共に一万余騎を率い各務原市を守る。
5日、鎌倉方と戦うが、官軍は他と合わせて二万余で敵の半数にも満たず、敗れ帰洛する。
12日、軍を率い宇治を守る。
14日、宇治川の戦いで敗れ逃れる。
7月2日、捕らえられていた広綱は梟首された。
嫡男継綱は6月14日に戦死し、次男為綱と三男親綱の行方は判らない。
四男の勢多加丸は7月11日に捕らえられ、11歳とまだ幼い事から助命されるが、信綱に身柄を奪われ斬首された。
佐々木氏は後に信綱が継ぐ事となる。
年表
年月日は出典が用いる暦であり、西暦は元日をそれに変更している。