佐々木道誉 (SASAKI Doyo)
佐々木 道誉(ささき どうよ)/京極 道誉(きょうごく どうよ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代 (日本)の武将。
道誉は戒名で、諱は高氏(たかうじ)。
一般的に「佐々木佐渡判官入道(佐々木判官)」や「佐々木道誉」の名で知られる。
官位は左衛門尉、検非違使、佐渡守など。
近江国の地頭である佐々木氏京極氏に生まれ、執権北条高時に御相供衆として仕える。
後醍醐天皇の綸旨を受け鎌倉幕府を倒すべく兵を挙げた足利尊氏に従い、武士の支持を得られなかった後醍醐天皇の建武の新政から尊氏と共に離れ、尊氏の開いた室町幕府において政所や六ヶ国の守護を兼ねた。
ばさらと呼ばれる南北朝時代の美意識を持つ婆沙羅大名として知られた。
『太平記』には、謀を廻らし権威を嘲笑し粋に振舞う、道誉の逸話を多く記している。
御相供衆
永仁4年(1296年)、近江国の地頭である佐々木氏京極氏に生まれ、1304年に外祖父である佐々木宗綱の後を継いで家督を継承する。
1314年に左衛門尉、1322年(元亨2年)には検非違使となる。
検非違使の役目を務めて京都に滞在していたと考えられており、後醍醐天皇の行幸に随行している。
鎌倉幕府では北条高時に御相供衆として使え、高時が出家した際には供に出家して道誉と号した。
倒幕
1331年に後醍醐天皇が討幕運動を起こし、京都を脱出して笠置山 (京都府)に拠った元弘の乱では幕府が編成した鎮圧軍に従軍し、主に京都において事後処理を担当している。
捕らえられた後醍醐天皇は廃され、供奉する阿野廉子、千種忠顕らが隠岐島へ配流された際には道中警護などを務める。
後醍醐配流後も河内国の楠木正成らは反幕府活動を続けて幕府軍と戦った。
北条氏が下野国の足利尊氏(高氏)らを討伐に派遣する。
一方で、道誉は鎌倉の北条氏討伐を決意した尊氏と密約して連携行動を取ったともされる。
軍事的行動に参加した形跡は無いが、1333年5月9日、近江国番場で東国へ退却中の北条仲時の軍勢を阻み、蓮華寺で一族432人と共に自刃させた。
その際光厳天皇や花園天皇を捕らえ、天皇から三種の神器を接収している。
足利尊氏、上野国の新田義貞らの活躍で鎌倉幕府は滅亡し、入京した後醍醐天皇により建武の新政が開始されると、雑訴決断所の奉行人となる。
南朝との戦い
尊氏が政権に参加せず、武士層の支持を集められなかった新政に対しては各地で反乱が起こった。
1335年には、信濃において高時の遺児である北条時行らを擁立した中先代の乱が起こり、尊氏の弟の足利直義が守る鎌倉を攻めて占領した時行勢の討伐に向かう尊氏に道誉も従軍している。
時行勢を駆逐して鎌倉を奪還した尊氏は独自に恩賞の分配を行うなどの行動をはじめ、道誉も上総国や相模国の領地を与えられている。
後醍醐天皇は鎌倉の尊氏に対して上洛を求めるが新田義貞との対立などもありこれに従わず、遂には義貞に尊氏・直義に対する追討を命じた綸旨が発せられるが、建武政権に対して武家政権を樹立する事を躊躇する尊氏に道誉は積極的な反旗を勧めていたともされる。
尊氏は箱根・竹下の戦いなどで新田軍を破り京都へ入るが、奥州から下った北畠顕家らに敗れた足利勢は一時的に兵庫から九州へ逃れた。
このとき道誉は近江に滞在して九州下向には従っていないともされる。
九州から再び東上した足利勢は湊川の戦いで新田・楠木軍を撃破して京都へ入った。
光明天皇が即位して北朝を成立させ武家政権(足利幕府、室町幕府)を樹立し、後醍醐らは吉野へ逃れて南朝を成立させる。
足利幕府
道誉は近江・飛騨国・出雲国・若狭国・上総国・摂津国の守護を歴任した。
1337年、勝楽寺(現滋賀県甲良町)に城を築き、以降没するまで本拠地とした。
1340年には子の秀綱とともに白川妙法院門跡亮性法親王の御所を焼き討ちし、山門宗徒が処罰を求めて強訴した。
すると朝廷内部でもこれに同情して幕府に対して道誉を出羽国に、秀綱を陸奥国に配流するように命じた。
ところが、幕府では道誉の普段の行状に批判的であった足利直義でさえも道誉を弁護して朝廷の命令を拒否、結果的に道誉父子は上総国に配流となるが、その後幕政に復帰している。
幕府においては道誉は引付頭人、評定衆や政所執事などの役職を務め、公家との交渉などを行っている。
また、1348年(正平 (日本)3年/貞和4年)の四條畷の戦いなど南朝との戦いにも従軍している。
足利幕府の政務は将軍尊氏と足利家執事の高師直、将軍弟の直義の二頭体制で行われていたが、両者の関係の悪化により1350年からの観応年間には観応の擾乱と呼ばれる内部抗争に発展する。
道誉は将軍尊氏側に属したが、南朝に属し尊氏を撃破した直義派が台頭すると、尊氏に南朝と和睦して後村上天皇から直義追討の綸旨を受けるよう進言する。
尊氏がこれを受けた結果正平一統が成立し直義は失脚、毒殺される。
正平一統は北朝上皇が南朝に奪われて破綻すると後光厳天皇を擁立しての北朝再建、将軍権力の強化に尽力する。
1358年に尊氏が死去し、子の2代将軍足利義詮時代の室町政権においては政所執事などを務め、幕府内における守護大名の抗争を調停した。
一方で幕府執事(のちの管領職)の細川清氏や斯波高経、斯波義将親子の失脚には積極的に関与する。
また、南朝とのパイプを持ち交渉も行い、1367年に幕府が関東統治のために鎌倉に設置した鎌倉公方の足利基氏が死去すると、鎌倉へ赴いて事後処理を務める。
同年には道誉の推薦を得た細川頼之が管領に就任する。
1373年に死去、享年78。
戒名は勝楽寺殿徳翁。
墓所は京極氏の菩提寺である滋賀県米原市清滝の徳源院、滋賀県甲良町の勝楽寺。
人物
道誉は南北朝時代の社会的風潮であるばさらを好んだとされる。
古典『太平記』においては下克上的風潮には批判的であるが、失脚した細川清氏が南朝の楠木正儀らと京都を占拠した際には、自邸に火をかけずに立花を飾り、宴の支度をさせた事が記されている。
また幕府内で対立していた斯波高経の花見の誘いを無視し、大原野(京都市西京区)で大宴会を催した事など道誉の華美な行動が記されている。
また和歌、連歌などの文芸や華道、茶道、香道、さらに近江猿楽の保護者となるなど文化的活動を好み、幕政においても公家との交渉を務めていることなどから文化的素養を持った人物であると考えられている。
連歌師の救済 (連歌師)、関白の二条良基が撰した『莵玖波集』には数多くの作品が入集している。
肖像画
三男の京極高秀が描かせたといわれる法体の肖像画が滋賀県甲良町の勝楽寺にあり、現在は京都国立博物館に保管されている。