佐久間盛政 (SAKUMA Morimasa)

佐久間 盛政(さくま もりまさ、天文 (元号)23年(1554年) - 天正11年5月12日 (旧暦)(1583年7月1日))は織田氏の家臣。
佐久間氏の一族。
玄蕃允。
勇猛さから鬼玄蕃と称された。
佐久間盛次の子。
佐久間安政、柴田勝政、佐久間勝之の兄。

織田家臣時代

天文 (元号)23年(1554年) 尾張国御器所(現名古屋市昭和区御器所)に生まれた。

佐久間軍記によれば「身長六尺」(約182センチメートル)とあり、数値の真偽は別としてかなりの巨漢であったことが窺える。

永禄11年(1568年)の観音寺城の戦い(対六角義賢)で初陣。

元亀元年(1570年)の越前国手筒山城攻め(対朝倉義景)、野洲市河原の戦(対六角義賢)、天正元年(1573年)の槇島城の戦い(対足利義昭)などに参加、戦功を挙げた。

天正3年(1575年)、叔父柴田勝家が越前一国を与えられた際、その麾下に配された。

以後北陸の対一向一揆戦などで際立った戦功を挙げ、織田信長から感状を賜った。
また、この頃に「鬼玄蕃」という異名がつけられた。

天正8年(1580年)、加賀国一向一揆の尾山御坊陥落により、加賀国金沢城の初代城主となり、加賀国一国を与えられた。

天正9年(1581年)、勝家が安土城に赴いた留守を狙って上杉景勝らが加賀に侵入してきて白山城(船岡城(加賀))を攻め落とした。

このとき救援に向かった盛政が到着したときには既に落城していたが、盛政はそのまま上杉軍に挑みかかり、これを破った。

さらに同年、能登国の地侍が景勝の扇動により蜂起して荒山城に籠城した際、前田利家の要請に応じて救援し、城の後詰に来ていた上杉軍を討った。

天正10年(1582年)の本能寺の変による信長の没後は柴田勝家に従った。

賤ヶ岳の戦い

柴田勝家は清洲会議以後豊臣秀吉との対立を深め、天正11年(1583年)ついに両者は近江国余呉湖畔で対陣する。

当初両者は持久戦の構えを取っていた。
このとき勝家の養子であったが秀吉側に寝返っていた柴田勝豊の家臣が、密かに盛政の陣に駆け込み、秀吉が大垣に赴いていて留守であることを伝えた。

これにより盛政は中川清秀の砦を急襲する作戦を勝家に提案した。

当初はこれに反対した勝家であったが、盛政の強い要望により妥協し、「砦を落としたらすぐ戻ること」という条件つきで承諾した。

盛政の急襲作戦は見事に成功し、盛政は清秀を討ち取り、賤ヶ岳の戦いの緒戦を勝利に導いた。

盛政はこの勝利を足がかりにして戦の勝敗を決しようと、次に豊臣秀長の陣を討つべく準備にとりかかっていた。

この後、賤ヶ岳砦を守備する桑山重晴にも降伏し砦を明け渡すように命令しており桑山も「抵抗は致さぬが日没まで待って欲しい」と返答し賤ヶ岳砦の陥落も間近であった。

しかし、琵琶湖を渡って船で上陸した丹羽長秀が増援として現れ、日没頃より砦から退去を桑山隊と合流し攻勢に出た為に賤ヶ岳砦の確保に失敗。

この機を待っていた秀吉が、かねてから準備していたとおり強行軍で戦場に戻ってきたため、盛政は敵中に孤立してしまった。

このとき、前田利家の部隊が動かなかったため、盛政の部隊と勝家の本陣の連絡が断たれた。

結果的に勝家軍は秀吉軍に大敗し、盛政は再起を図って加賀に落ち延びようとした。

最期

落ち延びる途上、盛政は中村の郷民に捕らえられた。
命運の尽きたことを悟った盛政は、自ら直接秀吉に対面したいので引き渡すよう言った。

引き渡されたとき、浅野長政に「鬼玄蕃とも言われたあなたが、なぜ敗れて自害しなかったのか」と愚弄されたが、「源頼朝公は大庭景親に敗れたとき、木の洞に隠れて逃げ延び、後に大事を成したではないか」と言い返し、周囲をうならせたという。

秀吉は盛政の武勇を買って九州平定後に肥後国一国を与えるので家臣になれと強く誘ったが、盛政は織田信長や勝家から受けた大恩を忘れることはできず、願わくは派手な衣装を着用の上、引き回しののち刑死したいと願った。
そしてそれが秀吉の権威を高めることにつながるとも語ったといわれている。
果たして京都市中を引き回された盛政は、やがて宇治市・槙島で斬首された。
享年30。

辞世は「世の中を廻りも果てぬ小車は火宅の門を出づるなりけり」。

没後

盛政には虎姫 (中川秀成室)という娘がいたが、後に秀吉の命により中川清秀の二男中川秀成に嫁ぎ、豊後国・岡藩主の奥方となった。
その縁で盛政の菩提寺は、大分県竹田市の英雄寺である。

秀成は、虎姫の死後、その悲願を汲んで、五男の内記に盛政の家を復興させた。
その子孫は現在まで大分市で続いている。
詳細は「虎姫」の項を参照のこと。

また、それとは別に盛政の名跡を継いだ家が尾張藩徳川家の家臣として存在したという話がある。
虎姫の娘の子、佐久間重行が初代で、重行、重直、重勝、重賢、重豊、雅重と続いたという。
二代目の重直は上野国安中・坂元両所奉行を勤めた。
その背景には京都所司代・板倉重宗と信濃国長沼藩主、佐久間勝之(盛政の弟)の力添えがあったようである。
雅重の代には、佐久間姓より本姓である三浦に戻しているが、その代で絶えたと言われている。

[English Translation]