佐久間象山 (SAKUMA Shozan)
佐久間 象山(さくま しょうざん(ぞうざん)、1811年3月22日(文化 (元号)8年2月28日) - 1864年8月12日(元治元年7月11日))は、日本の武士、兵学者・思想家。
松代三山の一人。
通称は修理、諱は国忠(くにただ)、のちに啓(ひらき)、字は子迪(してき)、のちに子明(しめい)と称した。
贈正四位。
生涯
文化8年(1811年)2月28日、信濃松代藩士・佐久間一学の長男として生まれる。
象山の号は近隣の黄檗宗象山恵明(ぞうざんえみょう)禅寺に因んだとされる。
象山は松代藩の下級武士の出であり、若年期に経学と数学を学んだ。
とりわけ象山は数学に興味を示し、熱心に学んだ。
若年期に数学の素養を深く身に着けたことは、この後の彼の洋学吸収に大きく益した。
天保4年(1833年)に江戸に出て、当時の儒学の第一人者・佐藤一斎に朱子学を学び、山田方谷と共に「二傑」と称されるに至る。
ただ、当時の象山は、西洋に対する認識は芽生えつつあったものの、基本的には「伝統的な知識人」であった。
天保10年(1839年)には江戸で私塾・「象山書院」を開いているが、ここで象山が教えていたのは儒学だった。
ところが天保13年(1842年)、象山が仕える松代藩主真田幸貫が老中兼任で海防掛に任ぜられて以降、状況が一変する。
藩主・幸貫から洋学研究の担当者として白羽の矢を立てられ、象山は江川英龍(太郎左衛門)の下で、兵学を学ぶことになる。
温厚で思慮深い江川は象山のことを嫌っていたようだが、ともかくも象山は江川の下で兵学の素養を身につけることに成功し、藩主・幸貫に「海防八策」を献上し高い評価を受けた。
また、江川や高島秋帆の技術を取り入れつつ大砲の鋳造に成功し、その名をより高めた。
これ以降、象山は兵学のみならず、西洋の学問そのものに大きな関心を寄せるようになる。
ガラスの製造や地震予知器の開発に成功し、更には牛痘種の導入も企図していた。
嘉永6年(1853年)にマシュー・ペリーが浦賀に来航した時も、象山は視察として浦賀の地を訪れている。
しかし嘉永7年(1854年)、再び来航したペリーの艦隊に門弟の吉田松陰が密航を企て、失敗するという事件が起こる。
象山も事件に連座して伝馬町に入獄する羽目になり、更にその後は文久2年(1862年)まで、松代での蟄居を余儀なくされる。
元治元年(1864年)、象山は徳川慶喜に招かれて入洛し、慶喜に公武合体論と開国論を説いた。
しかし当時の京都は尊皇攘夷派の志士の潜伏拠点となっており、「西洋かぶれ」という印象を持たれていた象山には危険な行動であった(しかも京都の街を移動する時に供も連れなかった)。
7月11日、三条木屋町で前田伊右衛門、河上彦斎等の手にかかり暗殺される。
享年54。
現在、暗殺現場には遭難碑が建てられている。
人物・逸話
象山は自信過剰で傲慢なところがあり、それ故に敵が多かった。
数々の業績を残したにも関わらず現在に至るまで象山の評価が低いのも、彼の性格の由来するところが大きいと言う人もいる。
しかし当時の日本において、象山は紛れもない洋学の第一人者だった。
彼を斬殺した河上彦斎が、後に象山の事歴を知って愕然とし、以後暗殺をやめてしまったという逸話からも、そのことを窺い知ることが出来る。
更に彼の門弟には前述の吉田をはじめ、小林虎三郎や勝海舟、河井継之助、坂本龍馬、橋本左内、加藤弘之など、後の日本を担う人物が多数おり、幕末の動乱期に多大な影響を与えたことも事実である。
自らを「国家の財産」と自認しており、坂本龍馬に「僕の血を継いだ子供は必ず大成する。そのため、僕の子供をたくさん生めるような、大きな尻の女性を紹介してほしい」と頼んだこともある。
しかし彼の息子・三浦啓之助も象山同様素行が悪く、大成するどころか新選組を脱走する事態を招く。
真実かどうかは定かではないが、マシュー・ペリーが唯一頭を下げた日本人であるとされる。
勝海舟の妹の順が嘉永5年(1852年)に象山に嫁いだので義兄となったが、傲慢な象山をあまり高く評価していない。
氷川清話によると、「あれはあれだけの男で、ずいぶん軽はずみの、ちょこちょこした男だった。が、時勢に駆られて」云々とけなしている。
双方とも自信家過ぎてそりが合わなかった、と見える。
和歌や漢詩、書画に巧みだった。
岸辺成雄著『江戸時代の琴士物語』によれば、古琴や琴も好んで奏でていたという。
嘉永4年(1851年)に江戸で大砲の演習を行ったが、砲身が爆発して周囲から大笑いされた。
しかし象山は「失敗するから成功がある」と述べて平然としていたという。