六角氏郷 (ROKKAKU Ujisato)

六角 氏郷(ろっかく うじさと)は、江戸時代の武士。
六角氏嫡流の六角義郷の嫡男。
母は織田秀信の娘。
幼名は龍武丸。
通称は四郎。
官位は従四位下中務大輔・兵部大輔・左衛門督。
別名に兵部。
印は「江源明流」。

その経歴の信憑性は歴史学において長らく疑問視されてきたが、一部にその存在を推定させる文書や系図類が存在し、それにより実像の解明がなされつつある。
沢田源内と同一人物とされることもあるが、源内は1660年(万治3年)に没しており別人である。

生涯

元和 (日本)7年(1621年)、六角義郷の長男として生まれる。

大名ではなかったが、『寛政重修諸家譜』においても六角氏の嫡流として認められており、家臣を従え武士として京に暮らしていた。
教養深く言うべきことを言う性質で、相国寺住持愚渓等厚、汝舟妙恕とも交流があった。
寛文3年(1663年)9月晦日には愚渓と夢窓国師の降誕年代について論じ、当時信じられていた説の誤りを正している。
佐々木六角氏の正統として佐々木氏本家系図「金泥の巻き」を所持、四位の位階を持ち、後水尾天皇から院昇殿を許されていた(『夢窓国師俗譜』、『葉隠聞略』、沙沙貴神社所蔵佐々木系図)。
浪人でありながら四位以上の者にしか許されない白小袖を着用していたため、天和年間に京都所司代稲葉正則の取調べを受けたことがあるが、家伝の永補任御免許について言及、実物も持参し堂々と返答して事なきを得たという出来事がある。
稲葉はこの件について、丸亀藩主京極高豊に書状を送って照会し、「六角兵部という者なら知っている」との回答を得ている。
葉隠聞略においては、鍋島直茂が氏郷を六角氏の正統として認識していた発言が認められ、当時の人々に氏郷が六角氏正嫡として認められていた事実がうかがえる。

『京極氏家臣某覚書抜萃』によると京極高豊とは、天和年間以降親交が深く、京極家から合力銀を受けていた。
これは実子がなかったことから六角家に代々伝わる家宝七品を高豊に贈り、高豊の子を迎えて後継者とした(これ以前には同じ宇多源氏の堂上家である庭田家から庭田雅純の子・庭田重条を迎えて後継者としており、重条が実家に戻った後には筑前黒田家や津和野亀井家に家宝を譲渡し後継者を得ようとしたが、成功していない)縁によるものである。
その三年後に丸亀を訪れた折には京極氏一門として三千石を給し、丸亀に迎えようとの話が出たという記録もある。

元禄6年(1693年)、死去。
享年73。
沙沙貴神社所蔵佐々木系図に官位が記載されている。

子孫
なお、氏郷の子孫にあたる六角敦周(1727年~?)(おそらく孫と思われる)は1768年(明和5年)に滝口武者に任じられ、佐渡守にまで昇進、滝口六角家として幕末まで存続した(『地下家伝』)。
氏郷の玄孫である六角敦義(生没年不詳)は『御遷幸供奉色目抄』を著し、学者としても名を成した。

また、娘婿である医師有馬重雅の子孫に医師六角重任がおり、天明年間『古方便覧』『疾医新話』などの著作を残している。

[English Translation]